『冷たい炎』



「まるで祐筆気取りね」
  ぽそりとナミが呟く。
  誰のことを言っているのか、サンジにはすぐにわかった。
「あら。だけど彼、なかなか几帳面な字を書くのよ」
  食後のコーヒーに口をつけ、ロビンが言う。
  ここ数日、エースはチョッパーにべったりとひっついている。薬の調合を手伝ったり、力仕事に協力したりと忙しそうだ。手伝いの一環としてエースは、チョッパーが調合する薬の成分を随時ノートに書き留めていく手伝いをしていた。それを揶揄って、ナミは祐筆のようだと言っているのだ。
「いいんじゃない? 船医さんも助かっているみたいだし」
  ちら、とロビンの視線がサンジのほうへと向けられる。それを意識しないようにして、サンジはさりげなく目を伏せる。
  あの日から気にしないようにしていた。
  あの日のことは、心の奥底にしまい込んでいた。思い出さないように、意識しないように。何よりもサンジには、エースがあの日のことを忘れたがっているように思われたからだ。
  あの時は、二人ともどうかしていたのだろう。
  心の中に生じた不思議な気持ちは、エースが忘れたがっている限り、表に出してはならない。そう。エースの記憶が元に戻った時には、こんなことがあったということすら、忘れ去られてしまうのだから。これ以上は、思い出してはならないと、サンジは唇をそっと噛み締める。
「馬鹿みたい」
  ナミが呟いた。
  はっとしてサンジが顔を上げると、苛々したようにナミが言い放つところだった。
「記憶を失っていても、彼はエースなのよ? 祐筆の真似事だなんて……」
  そう言ってナミは、席を立った。
  足音も高く、肩をいからせてナミは自室へと戻っていった。



  海の上での生活は、単調に過ぎていく。
  気が付くと、エースはメリー号の生活にとけ込んでいた。
  不思議なもので、こうして一緒に顔を付き合わせて食事をして、同じ部屋で寝起きを共にしていると、エースが最初からこの船の仲間だったような感じがしてくる。
  それではいけないのだと、サンジの胸のどこかで警鐘が鳴る。
  見張り番にあたったウソップのための夜食の用意しながら、サンジはぼんやりとエースのことを考える。
  エースがメリー号に乗り込んでから、十日以上が過ぎていた。
  失った記憶は、いったいいつになれば戻るのだろうか。
  ふと顔をあげると、エースがラウンジに入ってくるところだった。船尾でゾロと一緒にトレーニングをしていたのか、汗だくの姿でやってくる。
  慌ててサンジは冷蔵庫から二人分のドリンクを取り出す。
  入り口のほうに背を向けていると、後からズカズカと入ってきたゾロが、椅子に腰をおろした。偉そうにふんぞり返って、手ぬぐいで汗を拭き取っている。
「ほらよ。これ飲んだら、シャワー使えよ、二人とも」
  そう言ってサンジは、グラスをテーブルに置いた。
「おう、悪りぃな」
  何も気付いていないのか、ゾロがいつものように返してくる。
  祐筆ごっこの次は、剣士ごっこだ。チョッパーの後をついて回っていたエースは、今はゾロの後をついて回っている。毎日、起床すると軽くトレーニングをし、ゾロがうたた寝をしている間はチョッパーやウソップと一緒に過ごす。夕飯の後に軽くトレーニングをこなして、ゾロと同じように一杯やってから男部屋で眠っている……多分。
「ごっそーさん」
  ドリンクを一気に飲み干すと、ゾロはさっと席を立った。シャワーを使うために、大股でラウンジを横切っていく。
  サンジは無言で剣士の後ろ姿を見送った。



「ここは……居心地がいいな」
  二人きりになったラウンジで、エースがぽつりと呟いた。
  不意打ちだ。咄嗟のことにサンジは、何も返すことができない。頭が真っ白になって、ひとつとして言葉が出てこない。
「うまいメシがあるからか?」
  と、エースはサンジの顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「うまいメシがあって、食欲が常に満たされているから、ここはこんなに居心地がいいのか?」
  カラカラになった口の中を湿らせたい。出てこない唾液をサンジは無理矢理飲み込もうとした。
「ああ、そうだ」
  答えながら、いつもと同じように振る舞えているかどうか、サンジは不安になった。
  胸を反らせ、自慢げにエースを見つめ返す。
「俺の作るメシは、世界一うまいからな」
  そう告げると、エースは素直に頷いた。
「そうだな。アンタのメシはなるほど、うまい。多分、俺は、こんなうまいものを食ったのは初めてなんだろう」
  ニンマリと笑うエースは、記憶を失った男などではなく、元のエースのように見えた。
「あ…──」
  戸惑いがちにサンジが口を開こうとすると、エースは立ち上がってサンジのほうへと近付いてくる。肩に手を置かれた。
「この間のことは、忘れちまったか?」
  触れられた部分が、急速的に熱を持ち出す。てのひらの熱。エースの体温。触れてくる指先のなめらかさ。そして触れ合った肌の感触。
  そう。あの時、エースの肌に触れただけでサンジは、体の中の血流がざわめくのを感じた。もっと触れていたい、触れてもらいたい。そう思ったのは気のせいではない。
「アンタは忘れたがっていたんじゃないのか?」
  さりげない風を装って、サンジが尋ねる。
  忘れてしまったほうがいいのだ、あの時のことは。エースにとってマイナスにしかならないような出来事なら、きれいに忘れてしまったほうがいいはずだ。
「忘れたい? 俺が?」
  フン、とエースは鼻で笑った。
「忘れられなくなりそうで、恐かっただけだ」
  そう言ったエースの手が、サンジの肩をするりと撫でる。
  シャツ越しに伝わってくるエースのてのひらの熱が、サンジには、ただ恐かった。



  慌ててサンジは俯いた。
  夜食の準備が先だと心の中で自分に言い聞かせると、小振りの弁当箱に卵焼きをつめていく。
  何かを思いついたのか、エースの手が卵焼きを摘んだ。
「あ、こら、摘み食い……」
  言いかけたサンジの口に、卵焼きが放り込まれた。舌先に触れたエースの指が、名残惜しそうに口の中から出ていく。
「うまいか?」
  尋ねられ、サンジは咄嗟に眉間に皺を寄せた。
  うまくないはずがない。自分が作った卵焼きだ。うまいに決まっている。
  言い返そうと顔を上げた途端、エースにキスをされた。侵入してきたエースの舌が、口の中を掻き回し、食べかけた卵焼きを掬い取っていく。真ん中に海苔を挟んだ、塩味の卵焼きだ。
「……甘くねえな」
  唇を離すと、エースは呟いた。
  サンジはもう一つの卵焼きを手に取ると、エースの口に持っていく。
「こっちがいいのか?」
  もうひとつの卵には、砂糖を入れた。ほんのりと甘い、出汁巻き卵だ。
  口をあけ、エースは出汁巻き卵を食べた。舌先がちらりと翻り、サンジの指に残る卵の味をも舐め取ろうとする。
  指先が熱かった。そう感じたのは、もしかしたらサンジだけかもしれない。エースの唇に、舌に触れられた指先が、じんわりと熱を孕んでくる。
「うん、甘い」
  嬉しそうにエースが呟く。
  その間に差し入れの弁当を完成させたサンジは、エースの鼻先にバスケットを突きつけた。
「見張り台のウソップに渡してきてくれ」



  椅子に腰掛けて、エースが戻ってくるのをサンジは待っている。
  心臓がバクバクと鳴っている。
  何故、こんなにも胸が高鳴るのだろう。
  自分と同じ男だというのに、エースのことを思うだけで、胸がドキドキする。こんなのは間違っていると、胸の奥底で理性が呟く。その声が聞こえないように耳を塞ぎ、サンジは目を閉じた。
  真っ暗だ。
  心の中は真っ暗で、何も、何も、見えない。
  音もなく、光もなく、ただ自分の存在だけが闇の中に漂っているような感じがして、サンジは小さく身震いをする。目の前の現実を否定するということは、孤独を意味するのかもしれないと、ゆっくりと目を開けたところでエースの姿がドアの向こうの暗がりに見えた。
「ただいま」
  にんまりと笑うエースの表情は、どこか翳りを含んだものだ。記憶を失う前の明るさは、いつか戻ってくるのだろうか。閉じた拳に軽く力を入れると、サンジは口元に淡い笑みを浮かべた。
「おう。悪かったな」
  差し入れを持っていってくれるよう頼んだ手前、エースが戻ってくるまではここにいなければと思っていた。それが、何を意味しているのか、サンジ自身、ちゃんと理解していた。エースを突き放そうと思っているのなら、キスをされた時に拒否すればよかったのだ。拒否して、そして自分で差し入れを持っていけばすんでいたことだ。
  待っていたということは、キスの続きを期待しているということだ。
  エースはそのことを、正しく理解しているだろうか?
  小首を傾げてサンジは、エースの瞳を見つめる。欲望の色は、見えるだろうか。炎のように、ゆらゆらと揺らめいて瞳の中で踊ってはいないだろうか?
「さっきの卵焼きは、もうないのか?」
  真顔でエースが尋ねてくる。
  ホッと息を吐き出し、サンジは首を横に振った。
「ない。さっきのあれは、ウソップの夜食だったんだぞ」
  怒ったようにサンジが告げると、エースは悪びれた様子もなく、カラカラと笑った。
「そうか。そりゃ、悪いことをした」
  そう言っておいて、しれっと言葉を続ける。
「だけど、あの甘いのはうまかった。明日も食わせてくれ」
  そう言われたら、作るほうとしては悪い気はしない。サンジは頷いた。
「朝食に作ってやるよ」
  それが合図となったのかどうかはわからない。
  わからないが、その言葉を言うか言わないかのうちにサンジは、エースの腕に抱き締められていた。



To be continued
(H20.6.2)



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