『冷たい炎』



  真夜中を過ぎて隣の部屋が静かになってしまった頃、サンジは喉の渇きを感じて目を覚ました。
  隣のベッドではエースが眠っている。寝苦しいのだろうか、時折、寝返りを打っては微かな呻き声を上げている。
  物音を立てないようにそっとベッドから抜け出したサンジは、手荷物の中から水筒を探り当てた。一口、二口、水を飲むと、また荷物の中にそっと戻す。
  それからベッドに戻ろうと振り返って、ぎょっとした。
  ベッドで眠っていたはずのエースが、いつの間にか背後に立っていたのだ。
「こんな時間に何をしている」
  詰問するような口調に、サンジは産毛が毛羽立つのを感じた。
「驚かすなよ。喉が渇いたから、水を……」
  言いかけたところで、肩に重みを感じた。エースの頭だった。サンジの肩に上に頭を乗せたエースは、ゆっくりと両腕をサンジの体に回そうとする。いったい何をされるのだろうかと思っていると、触れるか触れないかの距離でエースの腕の動きが止まった。
「俺が眠っている間に、どこかへ行ってしまうのかと思った」
  弱々しいエースの声に、サンジは戸惑いを感じていた。こんな風に頼られると、庇護欲が沸いてしまう。こんな気持ちを抱くのも今だけだと、サンジはぎゅっと両の拳を握り締めた。
「どこにも行かねえよ」
  そう言って、エースの頭をポン、ポン、と軽く叩いてやる。
  肩にかかる重さが心地よい。
「どこにも、か?」
「ああ、どこにも行かねえ」
  子どものようなエースの問いに、サンジは躊躇うことなく返した。
「絶対か?」
「ああ。絶対だ──」



  翌朝になっても雨は続いていた。
  宿の食堂で落ち合ったクルーたちは、海に戻るか出航を見合わせるかを話し合っている。
  ナミの言葉では、一日、二日ぐらいの滞在なら、航海に支障はないらしい。
  昼間でもなお暗い海の向こうでは、海が荒れ狂っている。宿の窓から外を覗くと、時折、叩きつけるように強くなる雨が記憶のないエースを嘲笑っているかのようだ。
  部屋に戻ったサンジは、苛々としていた。
  生憎と朝食の時に煙草が切れてしまった。買いに行くべきか、港に停泊中のメリー号まで取りに戻るか。どちらにしても、雨に濡れることになる。宿で扱っていればよかったが、サンジの気に入りの銘柄は置いていなかった。宿からいちばん近い雑貨屋ではおそらく扱っていないだろうと、宿の主人は言っていた。もしかしたら、この島には入ってきていないかもしれない、とも。
  深い溜息を吐くと、サンジはちらりとエースを横目で盗み見た。
  食事が終わるとエースは、サンジと一緒に部屋に戻った。それからずっと、窓際に座ってぼんやりとしているのだ、エースは。
  人というのは、こんなにもかわってしまうものなのだろうか。
  記憶を失ったエースは、以前のエースとは別人だった。といっても、エースと会ったのはたった一度、アラバスタでの慌ただしい兄弟の再会の折にその姿を見た程度だ。あれだけの短時間で人となりをすっかり理解することは無理だろうが、それにしても印象ががらりとかわってしまっている。明るさだとか大らかさだとか、そういったものがすっかり削げ落ちてしまったような感じだ。
  どうしたものかと思いながら、サンジは頭を巡らせた。
  この雨の中、買い出しに出かけることもないだろう。麗しの航海士嬢は、明日の午後にここを引き払うつもりをしている。その頃には雨もやんでいるだろうというのが彼女の見解だった。だったら買い出しではなく、メリー号の様子を見に行くというとってつけたような理由を楯に、エースを連れ出すのもいいかもしれない。そうすれば、ついでに煙草を取りに行くこともできるではないか。
  そうと決まれば、善は急げだ。
  そそくさとナミにお窺いを立てに行ったサンジは、ほどなくして、エースと連れ立って宿を後にしたのだった。



  港に着くまでの間に、雨はずいぶんと弱まってきていた。
  足早に港を歩いていくと、桟橋のはるか向こうのほうにメリー号がちんまりと見えてくる。手前に停泊中の船は、商船だったり漁船だったり、メリー号と同じように海を渡ってきた船ばかりだ。地元の船はそのもっとずっと奥にずらりと並んでいる。
「冷蔵庫の中のものを確認したら、とんぼ返りだ」
  歩きながらサンジが告げた。わかったのかわかっていないのか、エースはぼんやりと水平線の向こうの仄暗い雲を見つめている。
  メリー号に戻ったら、冷蔵庫の中だけでなく備蓄分の食糧も確認しなければならない。すぐにでも足のつきそうなものはその場で調理して、エースと二人で昼を食べるつもりをしていた。
「すぐに戻るのか?」
  エースが尋ねる。
「ああ……いや、男部屋に置いている煙草を取りに行きたいんだ、実は」
  そう言ってサンジはニンマリと笑った。
  興味なさそうな顔のままエースはぷい、と明後日の方向を見た。二人は黙って歩き続け、メリー号に辿り着くころには雨はほとんど上がっていた。
「このまま雨が上がってくれるなら、甲板でランチにしてもいいな」
  できるだけさりげなく、サンジは呟く。
  エースからの返事を期待しているわけではなかった。
  海を眺めながら歩くエースは、記憶を失っているようには見えなかった。黙って真面目な顔をしていれば、以前のエースと何らかわるところはない。言葉を交わす時と、微妙な表情の変化だけが、エースが以前とは別人であることを示している。
「まずは食糧庫からだ。手伝ってくれ」
  メリー号の甲板にあがったサンジは、エースに声をかける。
  本当は、サンジ一人で充分だった。航海中ともなればいつも一人でしていることだ。停泊中に誰かの手を借りる必要もないのに、エースの気分転換になればと連れ出したのだ。
  すぐに甲板にあがってきたエースは、黙ってサンジの後について倉庫へと下りていく 。



  倉庫で食糧の点検を手早くすませてしまうと、サンジは男部屋から煙草をとってきた。何時間ぶりかの煙草に、深い満足の溜息が出る。
  冷蔵庫の中を覗く前に、二人はささやかな休息をとった。
「うまいか、そんなのが」
  ラウンジの椅子に腰掛けたエースは立ち上る紫煙を見つめながら問う。
  向かいの席についたサンジは少し考えてから、ニッと笑った。
「ああ、うまい。こいつは手放せねえ」
  そう言うとサンジは、吸ってみるかと小首を傾げてみせる。
  エースは不思議そうにサンジが口にくわえた煙草をじっと見つめ、少しだけテーブルの上に身を乗り出し、顔を近づけた。煙草の香りに混じって、ふわん、と卵焼きのにおいがしてくる。
「……煙たいだけじゃないのか?」
  怪訝そうな表情のエースに、思わずサンジの口元が綻んだ。
「まあ、ものは試しだ。吸ってみろよ」
  そう言ってサンジは、自分が吸っていた煙草を差し出す。エースはあっさりと身を引いた。煙草を吸う気はさらさらないらしい。
「じゃあ、かわりに何かウマいものでも?」
  尋ねると、エースは「そうだな」と頷いた。
  ちょうど、エースの腹が鳴った瞬間だった。
「少し待ってろ。すぐに用意するから」
  そそくさと席を立ち、サンジはキッチンに入った。
  倉庫の食糧はまだしばらくもちそうだったので、今日のところは何も触っていない。冷蔵庫を覗くと、ちょうど卵が目についた。まだ傷んではいないが、そろそろ食べてしまったほうがいいだろう。
  冷蔵庫から卵を取り出しながら、サンジはちらりと背後のエースを流し見る。
  何が食べたいとは、あえて尋ねることはしなかった。



  卵のにおいは優しいにおいがする。
  フライパンの中に流し込まれた卵のにおいが、エースの中の懐かしい気持ちを掻き立てる。
  先に炒めてあったチキンライスにフライパンの中の卵を乗せると、黄色い卵が湯気をあげながらトロリと流れる。
「召し上がれ」
  できたてのオムライスをテーブルに出すと、エースは訝しそうにサンジの顔を見上げた。
「好きだろ、卵焼き」
  そう言われて、エースはますます怪訝そうに眉をしかめる。
「温かいうちに食いやがれ」
  鷹揚に頷きかけるとサンジは、自分の分の皿に手をつけ始める。
「いいから、食え。クソうめえから」
  そんなサンジの言葉に、エースは躊躇うことなくスプーンを手に取った。
  一旦、口をつけると後は早かった。黙々とスプーンを口に運び、出された皿の料理は綺麗に食べ尽くした。ルフィほどではないが、食欲は人並み程度かそれ以上あるようだ。
  卵の味に、エースは何かを思い出しそうになった。
  失ったものなど惜しくはないと言いたげに、そのたびにエースは顔をしかめた。
  記憶など、もうどうでもいい。海賊の記憶など、どうとでもなればいいのだ。そんなもの、持っていたくはない。
  しかし。
  記憶を失ったエースは悲しいかな、目の前の海賊に惹かれ始めてもいた。
  ふんわりと卵焼きのにおいをさせる、この口の悪いコックのことが、気になり始めていた──



To be continued
(H20.4.25)



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