『恋はトツゼン! 1』



  カラン、と戸口の隅につけたベルが鳴った。
  咄嗟にカウンターで水仕事をしていたサンジが顔を上げると、茶封筒を片手にした緑色の短髪の青年が店に入ってくるところだった。
  スポーツか何かで鍛えているのか、引き締まった逞しい体つきをしている。顔は、サングラスをかけているためによくわからないが、顎の線がすっきりとしていて整った輪郭をしているようだ。
「らっしゃい」
  スツールに腰を下ろして休憩をとっていたゼフが、無愛想に言い放つ。抑えているのだろうが、どうしてもゼフの声は怒っているかのように聞こえてしまう。この声のせいで店にやってくる客は柄の悪い常連客と、恐いもの見たさの興味本位だけでやってくる風変わりなお客ばかりしかいない。
  緑色の髪の男は左手でサングラスを外して胸ポケットに軽くひっかけると、ゼフのほうへと視線を向けた。
「あんた……ゼフさんか?」
  淡い茶色の瞳が、剣呑そうにゼフを見据える。
「だったらどうだと言うんだ」
  ギロリ、とゼフが青年を睨み付けた。
  そこら辺の若造なら、ゼフのこのひと睨みで尻尾を巻いて逃げていくはずだ。しかし今日の青年は余程肝が据わっているのか、動じることもなく淡々とした口調で告げた。
「地主がここの土地を売ったんだ。それで、一週間以内にここを引き払ってほしいんだとさ」
  挑みかかるような眼差しで、青年はゼフを見つめる。
「なんだと……」
「おっと、待ってくれよ。俺はあくまでもオーナーの使いだ」
  そう言うと彼は、手にした茶封筒をゼフの前につきだした。
「ここの権利証書のコピーを預かってきたから、よく見てどうするか考えてくれ。一週間後には取り壊しが始まる」
  そう言うと、青年は踵を返した。
  サンジはただ黙って、青年を見送った。
  スツールのゼフが、これ以上はないというほどの怒りを握り締めた拳の中に抑えこんでいるのが何となく分かってしまった。



  サンジに親はいない。物心ついた頃には既に一人きりで生きていた。
  下町のごみごみとしたところで食い逃げを専門にして生活をしていたのだ。
  そんな時、サンジはゼフと出会った。
  たまたま入った料理屋で、いつものように食い逃げしようとしたところを追いかけられたのだ。あの、厳つくてどうにも小汚いとしか思えないような顔のゼフに追いかけられ、サンジは走って走って、何とか振り切ろうと遮断機の下りかかった踏切に飛び込んだ。
  あの時は、渡れると思っていたのだ。
  必死になって逃げていたサンジには、ことの重大さがわかっていなかった。
  飛び込んだ踏切の溝で足を取られ、サンジは派手に転倒してしまった。慌てていたし、焦ってもいた。早く逃げなければ捕まってしまう──そう思うと一刻も早くこの場から逃げなくてはと思うのだが、ひっかかった足は、なかなか外れてはくれない。どうすればいいのかと半ば自棄になりかけたところに、こちらへと向かってくる列車の音が聞こえてきた。レールを伝う列車の振動には気付いていたが、こんなに早く列車が来るとは思ってもいなかった。
「外れろ、外れろ……クソッ、外れろっ!」
  必死になってレールから足を引き抜こうとしているところへゼフが飛び込んできたのだ。
「馬鹿野郎、何もたもたやってんだ!」
  ゼフの怒声と、突き飛ばされた衝撃。迫ってくる列車。すぐ側を通過する瞬間の耳にキーンとくる轟音。何もかもが目まぐるしく移り変わり、アスファルトで顔をしたたかに打ったところで初めて、サンジは自分が助かったことに気がついた。
  あの事故でゼフは片足を失った。
  同時にサンジは、幼いながらもゼフへの引け目を背負うことになる。



  ──カラン。
  入り口のベルが小さく鳴った。
  あの青年が店を出ていったのだ。
  サンジははっと我に返ると、止めていた洗い物の手を再開した。
  忙しなくしていたら、きっと今の話は作り話だとゼフと二人して笑い飛ばせるだろうと、そんな風に心の中で願いながら。






to be continued
(H15.8.28)



ZS ROOM

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