ナミの部屋で、サンジはホットミルクを飲ませてもらった。
  あたたかな液体が喉を通り落ち、ゆっくりと身体中に染み渡っていく。手にしたマグカップのあたたかさが心地好い。
  サンジは礼を言って、そのまま立ち去ろうとした。
  今さらだったが、店が心配だ。時間があればゾロも顔を出すと言っていた。彼が来た時に自分が店にいなければ、無駄足を運ばせることになる。やはりどうあっても店には出なければと、サンジはホットミルクの礼を重ねて言った。
「いいのよ、サンジくん。そんなに気にしないで」
  と、ナミが返す。
「それよりも、本当にそんな状態で仕事に行くの？」
  言われて初めて、気がついた。
  何とはなしに身体が怠かったが、熱っぽいなどというものではなかったのだ。マグカップを持つ手が微かに震えていた。単なる貧血かと思っていたが、そうではないらしい。熱のせいだろう。それでも、わずかに考えるふりをしてから、サンジは律儀に言った。
「大丈夫ですよ、ナミさん」
  ナミはそれ以上は何も言わず、「そう」とだけ、言った。
  部屋を出て行こうとするサンジは軽い目眩を感じたが、咄嗟に壁に手をついて誤魔化した。そのつもりだった。
「店まで送るわ」
  軽い溜息と共に、ナミの呟きが聞こえてきた。



  ロビンの運転する車でサンジは店に戻ることになった。
  こんな状態でなければと、悔やまずにはいられなかった。何といっても両手に花だ。こんなことはそうそう起こるわけではない。歯がみして地団駄を踏みたい気持ちをぐっと堪えると、熱でぼんやりとなった目で交互に二人を見る。
「何だか落ち込んでいるみたいね」
  ハンドルを切りながら、ロビンが言う。
「そんなこと……」
  女性に対する時用のいつもの陽気な態度で返そうとしたが、どうにも腹に力が入らない。弱々しく掠れた声に、サンジ自身がぎょっとなって口ごもる。
「店に着くまで少し眠るといいわ」
  ロビンがそう言うと、すかさずナミはシートの後ろのほうでごそごそとし、ハーフケットを引きずり出してきた。
「サンジくん、これ羽織って。目を閉じてるだけでも少しは楽だと思うわよ」
  ふわりとハーフケットが肩にかけられる。ふかふかとしたケットは、甘い柑橘系のにおいがしている。ナミのにおいだ。あの部屋のほんのりと甘いかおりと同じだ。
「無理をして店を開ける必要はないのよ？　それでもあなた、店に行くと言うの？」
  信号が赤になったのか、車が静かに停止した。
  サンジは目を閉じたまま、頷いた。
「ジジィが心配してるだろうから……」
「そうね。確かに、あなたが開店時間にいなかったことを心配していたようだったわ」
  これ以上はサンジに喋らせまいとしてか、ロビンがすかさず言葉を続けた。
「だけどね、もうお店のことは心配しなくてもよくなったってこと、知らなかったでしょう？」
  そう言われて、サンジは一瞬、目を見開く。熱でぐったりとしていてもこの時ばかりは目の輝きが違った。ミラー越しにまっすぐにロビンを見つめる。
「今日いちばんの功労者さんに、少しだけご褒美よ」
  ふっ、と口元に笑みを浮かべると、ロビンはそう言って誤魔化した。



  店のドアを開けると同時に、カウンターの中からゼフの鋭い眼光がサンジを睨み付けてきた。
「無断外泊の次は無断欠勤かと思っていたが」
  義父の厳つい表情からは、怒っているのかそれともただ単にポーズとして怒っているふりをしているだけなのかがわからない。
「──…クソジジィ」
  サンジが、口の中でぽそりと呟く。
「あの、違うんです……」
  サンジを脇から支えていたナミが口を開いた。
「あたしたち、商店街でサンジくんが具合悪そうにしていたから、それで……」
  必死になってナミが言葉を探していると、ロビンが遅れて店に入ってきた。
「今朝はどうも」
  ちらと視線を馳せ、ロビンはゼフと挨拶を交わす。
「彼、すごい熱よ。こんなところで立ち話をしている場合じゃないと思うわ」
  呆れたような口調のロビンの声で、ピンと張り詰めていた義父子の空気がわずかに崩れた……かのように、見えた。



  ゼフとの一悶着の後、サンジは店の奥の部屋でぐったりとしていた。
  頭がぼんやりとしているのは熱があるからだ。
  滅多に病気などしないサンジが熱を出したのは、やはり昨夜のことが原因だろう。他に思い当たることなど一つとしてない。悔しいが、認めるしかない。
  熱で潤んだ目をすがめると、サンジはじっと天井を見上げる。
  この部屋を増築した時には白かった天井も、いつの間にか煙草のヤニで黄色く変色していた。
  そういえばゾロの部屋は昔の日本風の造りだった。天井には年季の入った板が敷き詰められていた。床に仰向けになって寝そべると、日に焼けた畳が少し背に痛かった。
  母屋があって、井戸があって、道場があって……。
  養父ゼフと二人暮らしのマンションとは大違いだ。
  また行きたいと、サンジは思った。
  また、ゾロの部屋に行って、今度は剣道の師匠とゾロとが手合わせするところを見せてもらいたかった。



  ゾロが、格好よく竹刀を振る様を一度でいいから見てみたい──