「好きです、十代目」
そう告げた瞬間の綱吉は少し驚いたような、困ったような表情をしていた。
それもそうだろう。
中学生時代に出会って以来、ずっとこの人とは一緒だった。これまでの獄寺の人生のすべてを捧げてきた相手だ。時にもどかしい想いを秘めたまま、意に沿わないこともしなければならなかった。だが、獄寺の心は、目の前のこの男がいい、この男でなければならないと胸の内で常にざわついていた。
「あの……」
ダメっスか? そう尋ねると、綱吉は何とも言えない微妙な表情をした。言葉にするのは難しい、と。そう、やんわり諌められた。
彼が獄寺のことを心底大切に想っていることは昔から知っていた。
はすっぱな態度を取ろうが、過剰な好意を向けようが、とにかく常に同じ態度を崩さず、誰に対しても公平な態度を見せる。彼がアルファだということは初めから知っていた。
この世界には、アルファ性、ベータ性、そしてオメガ性という三種の性が存在している。生まれつきカリスマ的な支配力を持つアルファ性、最も人口の多いごくごく一般的かつ平均的なベータ性、そしてアルファよりも数が少なくベータにも劣るとされるオメガ性の三種類の性によって人々は繁栄してきた。
ボンゴレファミリー十代目の沢田綱吉は、アルファとして生を受け、なるべくして十代目になった。
とは言うものの初対面の時には、そのあまりにもアルファらしからぬ様子に何かの間違いではないかと思った獄寺だったが、あれは誰に対しても平等を貫くためのカモフラージュだったのではないかと今でもときどき思うことがある。
オメガであることを隠し続けてきた獄寺にとって、そんな綱吉の態度はもどかしくもあり焦れったくもあった。綱吉の男気に惚れ込み、彼に一生涯ついていくと決意した時にはしかし、獄寺のオメガとしての自覚はほとんどなかった。毎日服用しているピルと抑制剤でオメガという厄介な体質を管理し、これまでに知り得た知識を駆使してうまく世間を欺き、仲間だけでなく綱吉にさえ獄寺の正体を気付かせることなくうまくやっていると、そんなふうに自負していた。
そう、獄寺はオメガ性を持って産まれた。アルファよりもさらに希有な存在であるオメガは、三種の性の中で最も弱い底辺の存在だ。社会的にも、肉体的にも。成人して三カ月ごとにヒートと呼ばれる発情期がやってくるようになると、オメガ性を持つ男も女も妊娠可能な肉体となる。アルファをたぶらかし、ベータをも惑わす妖しの性が、まさにオメガという性なのだ。運命の番と言うべき特定のアルファと番うことができるならともかく、そうでない場合はアルファのための性奴となって落ちぶれていくばかりのオメガも少なくはない。
そういった理由から、自身の性を偽り、ごく平均的なベータに成りすますオメガも少なくはないと聞く。現に獄寺がそうだ。常日頃から抑制剤やピルを飲み続け、彼はオメガであることをひた隠しにしてきている。それもこれも綱吉のそばにいたいがため、ひいてはボンゴレファミリーのためなのだ。
好きで好きで仕方がないのは、同じ男として綱吉の人間性に惚れているからだ。決して綱吉がアルファだからではない。そんなふうに獄寺は思っている。
オメガの自分がアルファである綱吉に惹かれるのはともかく、綱吉が男の自分に惹かれるはずがない。薬によって発情期を抑え込んでいる自分には、特に。
女なら、いつも綱吉のそばをうろついている笹川京子や三浦ハルがいるではないか。二人ともベータではあるが、綱吉が中学生の頃からずっと憧れのような淡い気持ちを持っていたはずだ。
それに、クロームだっている。彼女はアルファだ。とうの昔に発情期はきているはずだがいまだ骸が手を付けずに、大切にしている。そのうちクロームを綱吉に差し出すぐらいのことは、骸ならやりかねないと獄寺は思っている。
とにかく、自分では駄目なのだ。
綱吉のそばにいて、守護者として彼を守り、共に戦うのが自分に与えられた使命なのだ。オメガとしての自分など、綱吉が必要とするはずがない。
だから今はまだ、オメガの自分を知られるわけにはいかない。綱吉にも、綱吉以外の他の誰にも。
その日、任務を終えて自身の部屋に戻ると、人気のないはずの室内にひとつの影があった。獄寺の帰りを待っていたのだろう。寝室のすぐ外、廊下の壁にどっしりと背を預けた彼女はサングラスの向こう側から厳しい眼差しで獄寺を睨み付けてきた。
顔をしかめると獄寺は、面倒臭そうに声に出して呟いた。
「……来てたのかよ姉貴」
色のついたレンズの向こうから、腹違いの姉は鋭く獄寺の目を覗き込んでくる。
「どういうことなの、隼人。こんな抑制剤ごときでいつまでも周囲をごまかし続けることができると思っているの?」
ポン、と足元に投げ出されたのは獄寺が日々服用しているピルと抑制剤だ。ピルで発情期の管理をしつつ、抑制剤でもってヒート特有の諸症状を押さえ込む、少々乱暴な方法を獄寺は選択していた。綱吉のそばに居続けようと思うと、この方法しかなかったのだ。
ビアンキは投げ捨てた薬をまるで穢らわしいものであるかのように、爪先で押しやった。
「こんなものを使っていたら、そのうち体がボロボロになってしまうわ」
ピルはともかく、抑制剤のほうは効き目の強いものを使っているため、内臓への負担が大きいということは承知の上だ。そうまでしなければ綱吉のそばにいることができないのだということを、どうしてこの姉は理解してくれないのだろうか。
獄寺は苛々と頭を掻きむしった。
その一方でビアンキは驚くほど冷静だった。
「もう、正直に話してしまったほうがいいと思うの。あなたのためよ、隼人」
嘘くせぇ、と獄寺は胸の中で呟いた。
獄寺がオメガであることを告げて、いったい誰にどんなメリットがあると言うのだろう。
「俺自身のことだ、放っておいてくれ」
そう言うと獄寺は、ビアンキが足元に投げ出した薬を大事そうに取り上げる。いったいいつの間に彼女は、獄寺の秘密を知ったのだろう。実家にはバレないように動いていたはずだというのに。
「放っておけると思って、隼人? 私たちはたった二人きりの血を分けた姉と弟なのよ。弟のことを心配しない姉がいると思うの?」
低く落ち着いたトーンで話すビアンキは、ベータ性を持つ。ベータの姉貴にわかるはずがないだろうと言いかけて、獄寺は口をつぐんだ。かわりに深い溜め息をひとつつくと、押し殺したよう掠れた声で小さく言った。
「今日のところは帰ってくれ」
互いに解り合えない状態では口論が続くばかりだ。
それに、今の獄寺はそれ以前の問題を抱えている。近く、ヒートが始まることがわかっていた。ピルのおかげでかなり正確なところまで発情期を管理できるようになってはいるが、ピルが終了となった当日にヒートがくるのか、それとも翌日にヒートがくるのか、さらにその翌々日なのかまではさすがに見当もつかない。その時々の体調や精神状態にも左右されるため、ヒートが来そうな日には特に周りには警戒しなければならないのだ。
パタン、と小さな音を立ててドアが閉まる。どうやら、ようやくビアンキが出ていってくれたらしい。獄寺はほっと肩の力を抜いた。知らないうちに緊張していたらしい。実の姉と言葉を交わすだけのことに緊張するなんてと自嘲気味に口の端を歪める。
それから獄寺はバスルームでぬるめのシャワーを浴びた。ヒートの前になると無性に体臭が気になるのもオメガ故だろうか。
色とりどりの花が虫たちを誘うように、発情期のオメガはアルファを呼び寄せる。花に群がる虫のように、アルファはオメガを探し出し、圧倒的な力で支配し、奪い尽くす。さらに交合中にアルファに首を咬まれたオメガはその先の運命を特定のアルファに明け渡さなければならなくなってしまう。
十代目ならともかく、他のアルファに全てを与える気など獄寺にはない。
「冗談じゃねえ」
ぽそりと呟くと獄寺は、バスルームを後にする。
ボンゴレファミリーの守護者として、獄寺はヒート中もいつもとかわりなく活動をしている。抑制剤のおかげだ。アルファにそれと悟られずに日常生活を送ることができるのだから、多少の副作用は仕方がないだろう。
スウェットの下だけを身に着け、バスタオルで濡れた髪をがしがしと拭きながら獄寺はキッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。抑制剤の副作用が大きくなることはわかっていたが、今は飲まずにはいられない。
プルトップのリングを押し上げると、シュワッと小気味のよい音が上がる。缶の縁に口をつけ、獄寺は冷えたビールを一気に飲み干した。
途端に、身体の奥がドクン、と熱を帯びる。
シャワーの温度は低かった。水に近いぬるま湯を浴びたというのにしかし、身体のそこここが熱くてたまらない。
「やべっ……」
チッ、と舌打ちをした獄寺は、自分が発情期に入ったことを改めて認識する。
「薬、薬……」
ビアンキが投げ捨てた薬をどこに置いたかと獄寺は、慌ててあたりを見回す。普段は寝室のベッドサイドに置いてあったが、先程のやり取りに紛れて別の場所に置いてしまったことを獄寺は悔やんだ。
寝室を中心にぐるりと立ち寄った部屋を見て回る。アルコールのせいか、それとも副作用のせいか、頭がはっきりしない。
最後に冷蔵庫を開けると、すぐ目の前の棚に小さな白い紙の袋があった。獄寺が命と同じぐらい大事にしている、ピルと抑制剤の入った袋だ。
ホッとして袋を掴んだ。冷蔵庫のドアは開け放ったまま、テーブルの上に袋の中身をばらまく。白い小さな錠剤がピルで、それより小さなピンク色の楕円形をしたものが抑制剤だ。
ピンク色のタブレットを口に入れ、シンクの蛇口からじかに水を飲んだ。小さな粒が喉を滑り降りていく感触に獄寺は、間に合ったとばかりに安堵の息を吐き出しす。
それでもしばらくの間はシンクの縁に捕まったまま、じっとしていた。副作用を恐れてのことだ。
その間、蛇口からは水がザアザアと流れ出ていた。開け放された冷蔵庫のドアに、電子音が警告を発していることも気付いてはいたが、今の獄寺にはどうすることもできない。
抑制剤は飲んだが、すぐに効果が現れるわけではない。毎日定時に服薬することでその効果を継続的なものにするため、ピルから抑制剤への切り替えのタイミングによっては、ヒートの症状が出てしまうこともままあった。
今日は、どうだろう。つい今しがた感じた身体の熱は、ヒートの前兆ではないかと思われたが、そうではないのだろうか。
シンクの縁に捕まったまま、獄寺はその場にズルズルと座り込んでいく。
まだ、体が熱い。ビアンキとの会話が頭の中をぐるぐると回っている。
──うるさい、うるさい、うるさい!
シンク下の扉を殴り付け、スウェットの尻ポケットを探る。手が震えている。取り出したシガーケースを二度、取り落とした。ライターをカチカチと鳴らすが、なかなか火が点かない。苛々と獄寺は再びライターを鳴らした。ようやく火が点いた。煙草を燻らせる。
頭の中で繰り返されるビアンキの声が、少しだけ小さくなった。
火照る体を持て余しながらも獄寺は、せわしなく煙草を吸い続ける。この煙草には、微量ながら抑制剤の成分を含ませてあった。タブレットでの服用ができなくてもしばらくの間ならこの煙草でヒートを抑えることができる。
ようやく体の火照りが落ち着いてくると、獄寺はゆっくりとその場に立ち上がった。
抑制剤の効果が現れてきたのか、気分的なものなのか、少し胸がムカムカしている。
手にしたままだった煙草をシンクの底に投げ捨てると、獄寺は寝室へと足を向けた。ふらふらと覚束ない足取りだったが、頭の中はクリアになりつつあった。しばらく眠れば動けるようになるだろう。だが、今はダメだ。ヒートの症状が出ている今の状態では、まともな判断はできそうにない。眠って、頭をクリアにしなければ。
ドアを開けると獄寺は、足を引きずるようにして寝室に入った。
パタン、と音を立ててドアを閉める。部屋に入るとすぐにバスタオルとそのへんに投げ捨て、ベッドにごろりと転がり目を閉じた。何も考えずに眠ることは難しかった。身体の中ではまだ、ヒートと抑制剤、両方の症状がせめぎあっているような感じがした。不快感が体の中で膨れ上がり、混ぜ合わされるような感覚に、獄寺はさらに強く目を閉じる。
それでも手は、自然と下肢のほうへと伸びていく。
スウェットの上から股間をなぞってみると、布地がしっとりと湿っているのがわかった。いつからこんなふうになっていたのだろうか。さらに軽く撫でさすっただけで、股間のものが硬く張り詰め、ヌルヌルとした液で下着を濡らしていくのが感じられる。
「……っ」
不意に、鼻にかかった声が微かに洩れた。
慌てて獄寺は、空いているほうの手で口元を塞いだ。
(2016.7.16)
|