雨脚が弱まってきたのか、頬に当たる雨の粒は柔らかで、小さかった。
なんでお前が、という言葉を飲み込んで獄寺は、山本をまじまじと見つめる。
こんな時間にこんな場所で、いったい何をしているのだろう、自分たちは。
今夜、オメガ狩りがこのあたりを徘徊していることは知っていた。その対策として綱吉の配下の者たちが警邏しているということも理解していたはずだが、まさか山本と鉢合わせするとは思ってもいなかった。
いや、こうなることははなからわかっていたことだ。
わかっていたのに、気付かないふりをしていた。
並盛町という狭いエリア内で動いていれば、こんなふうに鉢合わせして当然だ。
公園の入り口にはオメガ狩りの連中の気配が集まってきているというのに、タイミングが悪すぎる。
「奇遇だな」
思ってもいない言葉が獄寺の口をついて出る。
場所をかえたほうがいいだろうか、それともこの状況に身を任すべきだろうか。考えたものの、その時間はないと瞬時に判断する。
では、どうすべきか。
山本が何か言おうとして口を開きかけた刹那、獄寺は背後に人の気配を感じた。
「そこまでだ」
不快なにおいがあたりに漂い、獄寺は口元を手で押さえた。これほどまでに強烈な威圧感を感じるのは初めてだ。
「ぐ、ぅ……」
込み上げてくる嘔気は、背後にいる人物を全身で拒んでいることの証のように思える。
背後を見ようと体を動かすと、冷たい銃口が背中に押し付けられているのが感じられた。
「一緒に来てもらおう」
背後の男は、獄寺の知らない人物だった。声も気配も、馴染みのないものだ。
 山本がピクリと眉を動かす。どうやらこの状況を面白がっているらしい。
「嫌だと言ったら?」
獄寺が返すと、背後の男が微かに笑うのが感じられた。山本の様子をちらりと盗み見るが、薄笑いを浮かべたまま獄寺を見つめ返すばかりだ。腹立たしいことに状況は男に有利なように思える。山本の思惑が分からない今、下手に動かないほうがいいだろうと獄寺は判断した。
「わかった。おとなしくついて行けばいいんだろう」
降参だとぱかりに両手を軽く上げて、戦意がないことを示してやる。
背中に押し付けられた銃口がさらに強く背中を押し、腕を掴まれる。
足音もなく山本が近付いてきたかと思うと、流れるような動きで獄寺の腕を拘束した。山本の手馴れた様子に獄寺は、さすがだなと感心せずにはいられない。部隊を率いるようになって以来、山本は少しずつ昔の野球好きだった少年の山本から遠ざかっていっている。マフィアとしての山本は、何を考えているのかわからない。
背中に銃を押し付けられたまま獄寺は公園内を歩かされた。もっとも獄寺にしてみれば、先ほどから感じている嘔気のせいで逃げるどころではないのだが。
公園の奥まったところ、より人気のない公衆便所に獄寺は連れ込まれた。
抵抗はしたが、抗う事すらできなかった。嘔気と、山本の視線のせいだ。
山本が何を考えているのかはわからない。
仲間ではあるが、この男が何を考えているのか、時々わからなくなることがあった。だからお前は青いのだと昔、リボーンに言われたことがあったような気がする。
あの時のリボーンの呆れたようなどこか投げやりな口調が、耳の奥に蘇ってくる。
甘いのではなく、青い。
いったいどういう意味だったのだろう、あの言葉は。
嘔気はますます強くなり、獄寺の中の戦意など既に消失しつつあった。
オメガ狩りは複数人の犯行だが、アルファが一人というわけではないようだ。背後の男だけでなく、他にもアルファが潜んでいるらしい。
「本当に見返りはあるんだろうな?」
不意に山本が口を開いた。
オメガ狩りの連中とはどういう関係なのだろう。えずくふりをしながら獄寺は、山本をちらりと見る。今の状態で山本と戦って勝つ、もしくは逃げ切る自信はない。
だが、いよいよという時にはそうも言っていられないだろう。
どうしたら状況は自分にとって有利に働くだろう。
獄寺は嘔気を堪えながら頭を回転させる。
考えなければ。何でもいい。頭をフル回転させて、何でもいいから考えるのだ。
「全員揃ったな」
男が張りのある声で告げると、バラバラとあちらこちらから人影が出てくる。一、二、三……背後の男を入れて、五人。山本を入れると六人。多いな、と獄寺は思う。オメガ狩りの連中の構成はアルファが二人、ベータが三人だ。後から合流したアルファは、強い力を持つアルファだとすぐにわかった。獄寺の背後にいるアルファは特に脅威を感じるようなことはない。とはいえ相手はアルファだ。用心しておくに越したことはない。その他はベータだから、条件さえ整えば問題はない。それから、気を付けなければならないのは山本だ。今のところ山本がどう出るかはわからない。敵なのか味方なのか、それすら曖昧なままなのだから。
「本当にオメガなんだな、こいつ」
蔑むような声がすぐ近くからした。
ニヤニヤと笑いながら男たちが近付いてくる。
今の獄寺には、全員を相手にして戦うのは無理なことだった。何よりアルファの発するフェロモンというか威圧感というか……とにかく、この連中の発するにおいは不快なものでしかなかった。
「ボンゴレの守護者にオメガが混ざってるなんて、他の奴らは知ってんのか?」
下卑た口調で笑っているのは、ベータの男だ。
アルファの男たちは先にベータの連中をけしかけようとしているらしい。
「余計なことは考えるなよ」
背後の男が低く威嚇する。背中に当たる銃口が背骨に沿って上下するのが感じられる。
それにしてもこのオメガ狩りたちは、山本の存在をどう思っているのだろうか。はなから仲間だったとは思いにくい。きっと何らかの事情があって山本はオメガ狩りに取り込まれたのではないだろうか。ボンゴレの守護者が、どんな事情があってオメガ狩りに成り下がったのかは知らないが。
「余計なことを考える余裕なんてねえよ」
事実、アルファの濃いにおいが立ち込めていて、今の獄寺には余計なことを考える余裕なんてこれっぽっちもない。
「信用できるか」
そう言いながらオメガ狩りたちは獄寺を取り囲む。
「ムードのある場所でなくて悪いな、獄寺」
山本がニイッと笑う。
「そうだな、残念だ」
獄寺はそう返すと肩を小さく竦める。
この連中は、獄寺が逃げようとするとは思わないのだろうか。それとも、逃げようとしても獄寺をおとなしくさせるだけの何かを持っているのだろうか。
「おいおい、気を付けろよ。こんな奴でもボンゴレの守護者にして右腕なんだぞ」
間延びした呑気そうな声で山本が口を挟む。
「ああ……それなら心配に及ばない。いくらこいつが強くても、所詮はオメガ。アルファが二人もいるのに好き勝手できるわけがないだろう」
背後の男が鼻で笑う。
悔しいがその通りだと獄寺は思った。アルファの威圧感の前に獄寺は、蛇に睨まれた蛙にでもなったような気分でいた。これでは逃げ出そうにも、逃げられるはずがない。
「……なあ、早いとこやっちまおうぜ」
ベータの男が口を挟んでくる。何を、するのだろう。
緊張で身体が強張りそうだ。
獄寺が身構えようと片足に体重を移しかけた瞬間、背後の男が素早く動いた。ガッ、と音がして、獄寺の肩のあたりに衝撃が走る。銃で殴られたのだ。
「動くな」
低い声でそう男が命じると、獄寺の中の抗う気持ちが四散していく。
「傷はつけるなよ」
別の方向から声が飛んでくる。
「いいもの持ってるぜ、俺」
オメガ狩りの男たちに同調するように、不意に山本が声を上げた。
「オメガなら、誰でも一瞬で堕ちる媚薬がある」
発情期を誘発させる薬のことだろうか。獄寺は考えた。絶対に手に入らないという代物ではなく、病院やドラッグストア、インターネットで安易に手に入れることができるものだ。目の前のこういった連中なら、そんな薬を持っていてもおかしくはないだろうと獄寺は思う。とはいえ、山本がそんなものを持ってるとは思ってもいなかったが。
「どこに持っているんだ」
誰かが尋ねる。
「ここだ。この上着のポケットに持ってる」
山本が言うのに、オメガ狩りの連中は疑いの目を向けている。
「俺たちを騙そうとしてるんじゃないだろうな」
オメガ狩りの連中の中でもいちばん弱そうな男が猜疑心をむき出しにして山本に尋ねる。
「嘘だと思うのなら、こいつに使ってみろよ」
言いながら山本は、獄寺のほうを顎を突き出して示してみせる。
「ホンモノか?」
疑わしそうな男たちをちらりと見て、それから獄寺は山本のほうへと視線を向ける。
ホンモノだったら、まず間違いなく獄寺はこの男たちにいいように弄ばれるだろう。慰み者として好き勝手にされて……その後は、これまでオメガ狩りの犠牲になってきたオメガたちと同じような目に遭わされるのだろう。
「山本……てめぇ……」
どういうつもりなのだろう、この男は。
綱吉の番になれとしつこく言っておいて、この行動はいったい、どういうことだ。
「効果抜群だぜ。たいていのオメガはこれ一錠で思うがまま、だ。こいつはそこらのオメガよりもしぶといから、二錠でもいいんじゃねーの?」
面白そうに笑いながら、山本は獄寺にいやらしい眼差しを向けてくる。
本気だろうか。本気で言っているのだろうか、山本は。
「じゃあ……まずは二錠。少しぐらい痛めつけてやってもいいから、飲ませてみせよう」
背後の男が獄寺を羽交い絞めにした。この男は無駄な動きがない。山本の部隊にいたということは、荒事には慣れているのだろうと思われる。
「ちょっ……山本、マジか?」
学生の頃からの付き合いだ。山本がどういう人間かわかっているような気になっていたが、その実わかっていなかったのかもしれない。今の山本は、獄寺にとって知らない人間と変わりなかった。仲間に手を出し、危険な目に平気で遭わせる。そんな男が綱吉の親友で仲間だったなんて、すぐには信じられないことだ。
「怖がるなよ、獄寺。すぐに気持ちよくなれるからさ」
山本の目は、真剣な眼差しだ。顔は、笑っている。オメガ狩りの男たちと同じように。だがその眼光は彼らとは異なっていた。山本の瞳の奥には、強い意志が潜んでいた。
「怖がってる……?」
歯を剥き出し、獄寺は低く唸る。
「まさか。んなわけ、ねーだろ」
言葉を発すると同時に獄寺は背後の男に体当たりをかます。いまだ嘔気は続いているが、これぐらいのことはできる。抵抗もしないまま好き勝手されるのは性に合わない。後ろ手に拘束されたままでは何ほどの抵抗にもならないだろうが、まったく抵抗しないよりはマシだろう。
一瞬、背後の男の拘束が解ける。獄寺は身体を捻り、地面を蹴って男から離れようとした。
「はい、残念でした」
山本が笑いながら獄寺のシャツの襟首を掴み上げる。ぐい、と引かれてよろけたところで、別の男に羽交い絞めにされた。
「逃げられるとでも思っていたのか」
山本の部下だったあのアルファの男が、嘲るように言った。
悔しいと思うよりも、どうしてこんな男がボンゴレの配下に紛れていたのだろうかと獄寺は訝しく思う。気付かなかったのだろうか、誰も。獄寺がオメガであることを隠していたように、この男はアルファであることを隠していたのだろう。だが、どうやって? 誰にも知られることなく隠し通すことは、並大抵のことではできない。
男たちが下卑た笑みを浮かべて集まってきた。
あっという間に獄寺の口の中に、訳の分からない錠剤が押し込まれる。無骨な指が口の中に入ってくると同時に噛みつこうとしたが、無理だった。強い力で顔を押さえつけられ、手も足も出すことができない。薬の苦い味が口の中に広がり、すぐにホースが口に突っ込まれ、激しい勢いで水が口の中に入ってきた。
「おとなしくしとけば、すぐに解放してやるよ」
男たちの声が獄寺の耳に響く。
苦しくて息ができず、噎せこむ。大量の水が口の中どころか気管支に入り、喉にひりつくような痛みを感じる。
「お互い、気持ちよくなってすぐに終わるんだからさ。無駄な抵抗はやめとけ」
ヒヒヒ、と笑う男の声。もう既に誰かの手が、獄寺の衣服を剥ぎ取り始めている。
こんな……暗く汚い公衆便所でオメガ狩りの連中に犯され、殺されるのかと思うと自分で自分が情けなくなる。
逃げなければ。
たとえアルファ共のフェロモンに抗うことが出来なくても、獄寺はこのまま自分を差し出すことはするまいと決意する。逃げるのだ。どうあっても。どんな目に遭おうとも、逃げて、逃げて、逃げて……
「逃げられると思うなよ、獄寺」
山本の声がする。
「お前が悪いんだ。俺は、あの時ちゃんと忠告したぜ」
あの時とは、どの時だ。
必死に思い出そうとするが、思い出すことができない。
男たちの手から必死に身をかわしながら、それでも抵抗し続けることはできなくて、殴られ、髪を掴まれ、蹴り飛ばされ、意識が飛びそうになる。
物理的な暴力による痛みと、薬の効果で全身が火照るような熱さに包まれていく。
「ぅ……あ……」
いったん跪いてしまうと立ち上がることすらできず、四つん這いになったまま獄寺はこの状況から逃れようと身を捩る。
硬いものが手に当たり、そのまま身を乗り出すと頭をぐい、と押さえ込まれる。指先に触れたのは便器だった。様式便器に頭を突っ込まれたかと思うと、勢いよく水が流され、頭から水浸しになる。息ができない。
抵抗する間もなくシャツを引きちぎられ、スラックスは膝のあたりまでずり下ろされた。
情けないやら、腹立たしいやら。
とめどなく流れてくる水流に息もできず、獄寺は噎せこんだ。空気を求めて口を開けると水が入ってきて息ができない。頭を上げようとすると押さえつけられ、鼻水と涎にまみれ、えずき、噎せこむばかりだ。
逃げるなんて、とんでもない。
それだけの余裕すら自分には残されていないのだと獄寺は思い知らされる。
便器にしがみつきながら獄寺は、尻を平手で叩かれるのを感じた。
バシッ、と音がする。それも一度や二度ではなく、とめどなく音は続いている。痛みは感じない。無理矢理飲まされた薬のせいか、先ほどからの暴力のせいかはわからないが、感覚が麻痺しているような気がする。
「ん、はっ、ぁ……」
便器から顔を上げ、噎せこむ合間に声が出る。
「なんだ、善がってんのか」
「ケツ叩かれて悦んでやがるぜ、こいつ」
口々に言いながら、男たちは嗤っている。
「さすがオメガだな」
言いながらさらに激しく尻を打たれ、獄寺は身体を震わせる。叩かれたところが日のように熱くて、気持ちいい。叩かれる瞬間の痛みと、そのすぐ後にやってくる快感。叩かれて気持ちいいはずがないのに、どうしてだろう。腰を揺らして獄寺は次の平手を待つ。
「んあっ、ふ、ぅ……」
いつの間にか獄寺の股間は硬く張り詰めていた。性器の先を便器に押し付けると、よりいっそう強い快感が体の中を駆け抜けていく。
男たちからはわからないように獄寺は、腰を揺らす。ひんやりとした便器に先端を押し付け、それと気付かれないよう、ゆるゆると腰を動かした。赤く腫れた先端に、じわりと先走りの蜜が滲み出す。
「あ、あぁ……」
もっと、と獄寺は口の中で呟いた。
もっと、気持ちよくなりたい。もっと、強く擦りたい。もっと……もっと、もっと……。
気が付くと、男たちからの暴力のリズムに合わせて獄寺は腰を振っていた。
はしたなくも淫らに、尻を揺らして少しでも快感を得ようとしている自分はなんと浅ましい姿をしているのだろう。
男たちは嗤っていた。かわるがわる白い尻を打ち据えながら、目の前でただ蹲ることしかできないオメガの男を蔑んでいた。
なんと脆く弱いのだろう、オメガという性は──男たちはそんなふうにオメガという存在を侮蔑し、見下していた。今、この瞬間も。
「っ、ぁ……」
便器にしがみついた獄寺は、唇を噛み締める。気を抜くと声が洩れそうだった。快楽に溺れるオメガの淫らな喘ぎが、今にもこの口をついて出そうになる。
堪えるのだ。
今は、堪える時だ。
こんな低俗な連中に、女のようなみっともない声を聞かせるわけにはいかない。
噛み締めた獄寺の唇の端から、たらりとひと筋の血が流れ出る。
──十代目。
意識を失いそうになりながらも獄寺は、愛しい男のことだけを考えていた。
(2021.11.26)
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