どこにも帰さない14


  部屋を飛び出したものの獄寺は、どこへともなくふらふらと街中をうろつくばかりだった。行く宛があるとはいえ、今の獄寺はそこへ行く気にはなれず、また特に相手の顔を見て話したいとも思えなかった。もちろん訊きたいことならいくつもあったが、尋ねるには今一つ頼りないような気がして、足がなかなかそちらの方向へと向かないだけだ。
  自分に迷いがあることも起因していた。まだ、腹を括ることができないのだ。すべてをアルファである綱吉に委ね、オメガとして依存して生きることは、これまでの獄寺の生き様を否定してしまうように思われ、一歩を踏み出すことができないでいる。
  オメガだとかアルファだとか、そういったしがらみのない世界であればいっそもっと楽に生きることができたのかもしれないと思わないでもない。だが、これが現実。オメガの自分と、アルファの綱吉。互いに番となって相手に依存して生きていくことしかできないのだ。現実を受け入れるしか、生きていく術はない。だが、その受け入れかたがわからない。頭では理解していても、気持ちがついていかないのだから仕方がないだろう。
  深い溜め息を吐き出すと獄寺は、再びどこへともなく歩き始める。
  街中とはいえ通りの裏側だ。人影のまばらな夜道だから、様々なにおいが鼻をつく。食べ物のにおい、アルコールのにおい、煙草のにおい。それに混じるようにして、アルファのにおいが漂ってくる。
  獄寺は眉間に皺を寄せ、足を早める。
カツカツと近付いてくる足音に覚えはなく、しかしにおいは少しずつ濃くなってくる。
  ふと、オメガ狩りの一件が頭の隅をよぎる。
  もしかして自分は、つけられているのだろうか。そうであれば、行き先は変更した方がいいだろう。獄寺が行こうとしていたのは、クロームのところだ。オメガ同士、互いに腹を割って話し合えることがあるのではないかと思ってのことだったが、つけられたままクロームのところを訪れるには危険が大きすぎる。
  後をついてくる足音は次第に近付いてきていた。もうすぐそこまで近付いてきているのではないかと思って緊張に拳を握りしめた瞬間、路地の向こう側で見知った顔が大きく手を振っているのに気がついた。白蘭だ。
  ホッとして獄寺は走り出していた。あそこまで行けば、安全だ。不審なアルファのにおいに怯えながら暗い路地を歩く必要はなくなる。
  あともう少しで路地を抜けるというその瞬間、不意にアルファのにおいが濃度を増した。密度の高い甘ったるいにおいに獄寺の体が大きく反応を示す。
  カクン、と膝が折れ、地面に這いつくばる。
  一本道だと思っていた路地の横手に伸びる細道から、どこの誰ともわからぬアルファのにきついおいが漂ってくる。手足だけでなく脳まで痺れるような、吐き気を伴う甘ったるいフェロモンに、獄寺は大きくえずいた。嫌悪を感じながらも吸い寄せられるような麻薬めいた甘いにおいに、全身の力が抜けていく。
  そんな意識までも囚われそうになった獄寺の耳に、馴染みのある声が聞こえてくる。
「何やってるんだい、こんなところで」
  ふわりと割り込んできた別のアルファのにおいが、獄寺の思考を現実に呼び戻す。
  地べたに這いつくばる獄寺の目の端に、白蘭の姿がぼんやりと滲んで見える。
  助かった、と獄寺は思う。アルファのフェロモンに左右される自分が惨めでたまらなかった。だから嫌なのだ。だからオメガだと認めたくないのだ。唇の端をぎり、と獄寺は噛みしめる。
「人のモノに手を出そうとする無粋な輩がいるみたいだけど、いったい誰に喧嘩を売ってるのかわかってるのかい、キミは」
  獄寺の背後にいるのだろう誰かに向かって、白蘭が声をかける。悔しいけれど、今は白蘭に任せておくしかない。オメガの自分では、とても敵うような相手ではない。
  白蘭が大きく一歩前へと踏み出すと、背後の気配がじりじりと後退っていく。
  動揺と、怒り。それに負け犬のにおいをぷんぷん漂わせながら不快な甘ったるいアルファのにおいが薄まり、次第に遠ざかっていくのが感じられる。相手は、白蘭の姿を見て逃げ出した。自分に勝ち目はないと思ったのか、それとも……。
「さしもの右腕君も、アルファのフェロモンには耐性がなかったようだね」
  ふふっ、と柔らかな笑みを浮かべながら白蘭はさらりと腹立たしい言葉を口にしてくる。
  ムッ、と不機嫌そうに顔を歪めながらも獄寺は、今しがたまでの不快感が消えていることに気付いていた。同じアルファでありながら、この男のフェロモンは獄寺を翻弄することはなかった。弾かれたように顔を上げ、白蘭を見る。
  いつもの、飄々とした表情を浮かべた白蘭を見ても、何を考えているのか獄寺にはわからない。何かよからぬことを考えているのだろうことは想像に難くないことだったが。
「なに? ああ、ボクのフェロモンが君に効いていない事が不思議なんだね」
  ぶわっ、と白蘭のフェロモンが放出されるのが感じられる。だが、オメガを惑わす官能的なにおいではなく、いわば一種の気配のようなものしか感じとることができず、獄寺は戸惑っている。
「ユニちゃんとボクが番っているのは知ってる?」
  アルファの白蘭と、オメガのユニが番だという事実は以前から公然の秘密とされている。それはユニの心が白蘭ではなく、γに向いているからだとばかり思っていたが、そうではないのだろうか。
「ボクらの関係は世間が思っているほど単純じゃないんだよ。アルファ、オメガ、ベータ……番になろうとすれば心が邪魔をすることもある。気持ちを優先しようとすれば、体が拒否することもまた同じく。だからボクらは、ボクらなりの解決法を見つけ出したのさ。愛情の表現は無限にある。ひとつの型に拘る必要はないと思うけどね」
  よかったら、と白蘭は前置きをした。
「ボクらのアジトに来ないかい? せめて一晩だけでも」
  そう言われて、断るいわれがあるだろうか。
  獄寺は慎重に頷いた。
  すぐ近くに停めてあった白蘭の車でアジトまで移動する。緊急会議のために、急遽この近くにアジトを用意したと白蘭は言っているが、本当かどうかはわからない。
  それでも、渡りに船とばかりに白蘭のアジトへと向かうのは、やはりどこかしら後ろ暗いところがあるからだろう。ボンゴレの守護者という位置にいるクロームに対しても、そして綱吉に対しても。



  アジトは、並盛町の閑静な住宅地を抜けた外れにあった。
  こんなに近くにと思わずにいられない。いったいいつの間にこんな場所にアジトを用意していたのだろう、彼らは。
  並盛町にアジトを持つボンゴレ・ファミリーとしてはあまり喜ばしいことではない。この場所を記憶しておこうと獄寺は、眉間に皺を寄せて考える。
「さあ、着いたよ」
  そう言って白蘭に案内された獄寺は、とある部屋へと通された。
  夜も遅い時間だからだろうか、部屋に続く廊下は薄暗く、しんと静まり返っていた。部屋の中も薄暗く、照明は最低限まで落とされている。
「ここは?」
  ムスッとして尋ねると、白蘭はフフッ、と微かに笑った。
「ここは、ボクの部屋のひとつだよ。こんな時間だからね、案内できる部屋がなかったんだ」
  そう言われて獄寺は、一瞬にして警戒心を剥き出しにする。無断してた。この男の出すフェロモンが不快感を与えなかったから、てっきり大丈夫だと思い込んでいた。
  素早く身構えた獄寺に、白蘭はまたしても小さく笑う。
「ここでのキミの身の安全は保障してあげるよ。この屋敷にいる限り、キミがオメガとして不安を感じることは一切ないはずだ」
  屋敷にいるアルファはただ一人だと白蘭は言った。もちろん、この仮のアジト以外にならお抱えのアルファは何人もいる。だが、ここには白蘭一人しかアルファはいない。折よくオメガのユニが発情しているおかげで、白蘭は番にしか興味はないときた。これほどまでに安全な場所は、並盛中探しても、ここしかないだろう、とも。
  確かに白蘭の言う通りなのかもしれない。だが、部屋の壁にかかるあの大きなモニターはいったい何のためのものなのだろう。
  怪訝そうに獄寺がちらりと白蘭を見ると、彼は淡い笑みを浮かべてモニターを指さした。   モニターに映し出された二人の男女はむつみ合っていた。γとユニだ。獄寺は眉をひそめた。
「覗き趣味か?」
  映像だけでなく音声までも拾うとはもいったいどんな趣味だと顔をしかめて獄寺は背後の男を振り返る。白蘭は至って真面目な顔付きでモニターを眺めながら返した。
「ユニちゃんが発情期の間はずっとモニターしているんだ。特に三人で寝る時は、誰が裏切るかわからないからね。これは、ボクら三人同意の上でのことなんだよ」
  互いの身の潔白を証明するための方法だと白蘭は言う。例えば、γとユニが白蘭を裏切るかもしれない。或いは白蘭がγを裏切り、ユニを独り占めするかもしれない。もしくは、他の誰かが組織のために大義名分を振りかざして刺客を送り込んでくることも考えられる。それとも、よそのファミリーか。
  敵が多すぎて疑心暗鬼に陥らないためにも、三人でこの方法を選んだらしい。
  ユニの発情期の間はこのモニタールームが必ず稼働している。何故なら発情期の間だけ、ユニは白蘭を必要とするからだ。
「悪趣味だな」
  言いながらも獄寺は、三人の関係について想いを馳せる。
  アルファの白蘭とオメガのユニは、発情期の間だけ互いを必要としている。では、それ以外の期間はどうなのだろう。もともとユニは、γとの愛情を育んでいたはずだ。現に流れてくる噂と言えば、ユニとγの恋愛事情ばかりだった。白蘭の入り込む隙など、本来はなかったはずだ。
「悪趣味かどうかなんて、ボクらには関係ないな。合理的かつビジネスライクにボクらは関係を持っている」
  さらりと告げる白蘭の言葉からは、なんの感情も感じ取ることはできない。
  γとユニ、白蘭とユニ。それに、γと白蘭。いったいこの三人はどういう関係に落ち着いたのだろう。
「まあ、モニターを見てなよ。オメガのユニちゃんにはボクが必要だけど、女としての彼女にはγが必要だ、ってことがすぐにわかるから。現にあの娘の子宮は、γの子種しか生き残れないような環境になっている。ボクとの子は要らないってことは……つまりボクは単なる当て馬ってことだよね」
  自嘲めいた笑みと共に白蘭は、ピンク色のタブレットを一錠獄寺に差し出してきた。
「これは……?」
  獄寺が尋ねると、白蘭は深々と溜息をつく。
「アルファの精子だけを殺してしまう薬だ。うちのファミリーで密かに開発した。いわばユニちゃん専用の新薬だね。ベータであるγの精子だけが、ユニちゃんのお腹の中で活動することができる」
  タブレットはヴェルデとの共同開発の産物らしい。アルファの精子を殺してしまい、ベータの精子だけを生かす……それはつまり、発情期という限られた期間内のみ白蘭をパートナーとして扱うという、ユニの強い意志の現れなのかもしかない。
「ボクを番として認める代わりの妥協策がこれなんだけどね。天下のアルファ様をバカにしてると思わない? 彼女だけだよ、アルファをアルファとも思わないこんな非道な仕打ちを選択するなんて」
  冗談めかして言いながら白蘭は、部屋のドアを開けた。
  たとえユニに発情期に訪れたとしても、こんなふうにアルファの精子を無効化してしまうことができるのなら、安心して白蘭と体の関係を持つことができる。オメガ性のユニにとって、ベータであるγ一人だけと体の関係を続けていくことは難しいことだろう。いつか、どちらかが壊れてしまうかもしれない。その危険を、白蘭を交えた三人での関係にかえることでうまく回避したのだろう、彼女は。
「……それじゃあ、ごゆっくり」
  そう言うと白蘭は、部屋を出ていった。
  獄寺はじっとモニターを眺めた。しばらくしてモニターの向こうに白蘭が現れ、二人に近付いていくのが見える。
  ベッドに足を投げ出して座るγの上に乗り上げたユニは、背後から肩を抱き締めてくる白蘭に明らかに反応している。濃厚な性の香りがここまで漂ってきそうな気がして、獄寺はコンソールに手を置き、音声をオフにする。
  モニターの向こう側で行われている淫らな饗宴に関わることはすまいと、獄寺はカウチに身を沈める。
  モニターに背を向けると獄寺はきつく目をつぶり、愛しい人へと想いを馳せた。



(2018.2.10)


INDEX

                                             10

11     12     13     14     15     16     17     18     19     20