翌朝、獄寺は妙にすっきりとした目覚めを得ることができた。
ぐっすりと眠れたというわけではなかったが、しばらくぶりに落ち着いた朝を迎えることができたように思える。
ユニに用意してもらったスーツに袖を通し、獄寺は緊急会議に臨む。
個人的なことで綱吉をはじめ、ボンゴレの仲間たちに迷惑をかけるわけにはいかなかった。
出かける準備をすませると、獄寺は白蘭と共に車に乗り込んだ。外交関係は白蘭に一任されており、公の場にユニが出てくることは滅多にない。役割を分担しているのだと白蘭は言っていた。
見慣れた景色の中を車は静かに進み、ボンゴレ基地へと向かう。
ユニと番う白蘭から漂うフェロモンの香りは、不快なものではなくどちらかというと単なる香水のように感じられる。そのにおいに反応しないでいられるのは有難いことだ。
自分も、綱吉と番うことができたらいいのにと思わずにいられない。決して番ってはいけない相手に叶わぬ想いを寄せながら、身体だけの関係を持ってしまった。綱吉が自分を気遣い、追い求めるのはそれは同情や義務感といった、優しさからくるものだ。そうでなければ、アルファがオメガを求めるといった本能的なものからきているだけだ。
決して純粋な気持からくるものではないだろう。
そんなことを考えているうちに車はボンゴレ基地に到着する。玄関前の車寄せで降車した獄寺は、白蘭と並んで会議室に入った。
先に会議室に集まっていた人々の視線が痛いぐらいな獄寺の上に降り注ぐ。しかしそれも一瞬のことで、皆なにもなかったかのように自然体に戻り思い思いに会話を続ける。
しばらくしてフゥ太を伴った綱吉が会議室に入室すると、緊急会議の始まりだ。
会議室に集まったのは、ボンゴレからは綱吉、フゥ太、獄寺の三人。シモンファミリーの炎真とアーデルハイト、キャバッローネのディーノ、ミルフィオーレの白蘭、それにヴァリアーからレヴィがやってきている。それぞれが今回のオメガ狩りに対して興味を抱いているのは一目瞭然だ。
横行するオメガ狩への対策について様々な意見が飛び出す中、獄寺は静かに周囲の言葉に耳を傾けていた。
会議の内容に具体性はあまりなく、どれもパッとしないものばかりだった。それぞれ、自分のファミリーに属するオメガを守ることに終始しており、これといった策がなかなか出てこない。綱吉率いるボンゴレの方針にしてもそうだ。オメガである獄寺を守ろうとして、踏み込んだ策をはなから諦めている感がする。 いつもの綱吉なら熟考を重ねて誰もが考え得る最善の策を出してくるだろうが、今回のオメガ狩対策に限ってはそうではないようだ。何かに囚われ、思考の幅が狭まっていることが明らかだ。会議室にいる皆に対して案を出してくるも、どれもぱっとしない案ばかりだ。だから、他の連中も大した案を出してこないのだろう。同盟ファミリーの頂点に立つボンゴレのボスがこうだから、誰も同意を示さないのだ。
とは言うものの、いつまでも話し合いを続けていられるわけでもない。限りある時間の中で最善の策を提示することは、そう容易いことではない。獄寺はそっと唇を噛み締め、会議の成り行きを黙って眺めている。
昔から攻撃は最大の防御なりと言うではないか。相手が仕掛けてくるのをただ待つのではなく、こちらから仕掛けていけばいい。これまで獄寺が何度も考えてきたことだ。特にここ数日間はそのことばかりを頭の中で反芻していた。やろうと思えばできるはずだ。ただ、綱吉の許可が下りるかどうかが問題なだけで。 会議の様子を見守っていた獄寺は、机の下で握り拳を作るとぐっと力を入れる。
言わなければ。
今、言わなければ。
部下として綱吉に進言するのではなく、この緊急会議の場で同盟ファミリーの一員として発言しなければ、事は進まないだろう。
自分が囮となって敵をおびき寄せること。この一度限りですべてを終わらせるつもりであることを、言わなければ。
綱吉の許可は必要ない。まだ番ってもいない相手の許可に、どんな意味があると言うのだろう。
だらだらと会議が続く中、とうとう獄寺は、重い口を開いた。
「……囮を使いましょう」
本来ならばこういった公の場では右腕に徹し、発言すらしない獄寺が言葉を発した途端、全員の顔がこちらを向く。
「囮だって?」
最初に綱吉が言った。
「駄目だ。そんなこと……」
言いかけた綱吉の言葉を遮るように、横から茶々を入れるようにして白蘭が声をかけてくる。 「いいんじゃない?」
真っ先に白蘭が同意を示す。どこか面白がっているような白蘭の様子に、綱吉がムッとした表情を作る。
「そんな無責任な……」
ムッとして綱吉が言うのを眼差しで押さえたディーノは、どこか面白そうな表情で続きを促す。
「どんな作戦なんだ?」
周囲の同意を勝ち取ったディーノはまあ話だけでもと綱吉を軽くあしらう。
「作戦は……」
作戦などあるわけがない。その場に集まった面々をぐるりと見回してから獄寺は、思わせぶりに咳払いをした。
すぅ、と深く息を吸い込むとひと呼吸おいてから口を開く。
「ありません」
しれっとそんな言葉を獄寺は言い放った。
実際、ボンゴレをはじめとする同盟ファミリーの中に、犯人と繋がりのある者が存在するかもしれないのだと思うと、うかうか情報を渡してしまうわけにはいかないだろう。
「んっ、なっ……」
小さく声を上げる綱吉を横目に獄寺は、心の中が妙に落ち着いていくのを感じている。
「計画もなく動くなんて……」
炎真がぽそりと、しかし重々しく呟く。作戦に乗り気ではないようだが、獄寺は別に構わなかった。自分ひとりが囮になり、動けばいいことだ。それでオメガ狩りの連中を一網打尽にすることができるのなら、願ったり叶ったりだ。
「じゃあ、俺たちにはそちらの動きはわからない、と。そういうことなんだな?」
不信感を露に、レヴィが眉を潜める。
「そうです」
獰猛な眼差しを正面から受け止め、怯むことなく獄寺は返した。
「囮の動きが分からないのに協力は出来ないわ」
ムッとした表情でシモン・ファミリーのアーデルハイトが告げる。感情の見えない冷たい声だ。
「そうだねえ。せめて大まかな動きぐらいは教えてくれてもいいんじゃないかな」
白蘭がぽそりと同意を示す。
だが、言えない。こちらの動きを少しでも知らせてしまえば、その時点で内通者に手の内を読まれかねない。
「それは、後程報せよう」
周囲の不服を宥めるかのように、ディーノが宣言する。これで会合をお開きに持ち込もうとしているのがはっきりとわかる。
獄寺は、最後にもう一度集まった面々をぐるりと見回した。
夕べの感じから、白蘭は無関係のように思われる。ユニとγの複雑な関係を考えると、今は外部に向けて何かを企むようなことをする余裕はないはずだ。それに、彼のアルファのフェロモンに嫌悪を感じることはなかった。今回のオメガ狩りには無関係だと思われる。
雲雀と骸のことを考えると虫酸が走るが、あの二人もオメガ狩りには無関係だろう。シモンもヴァリアーもディーノ率いるキャバッローネも、アルコバレーノすら、オメガ狩りとの繋がりは見られない。
やはり引っ掛かるのは、ボンゴレ内部に詳しい人間だ。内通者がいるとしか思えない。それも、綱吉のごく身近にだ。
「囮のこと、もう一度考えてくれませんか、十代目」
獄寺は正面から綱吉の目を覗き込んだ。
綱吉はしばらく目を閉じて眉間に皺を寄せていた。しんとした静寂が会議室に広がっていく。 誰も、言葉を交わさない。誰もが綱吉の鶴の一声を待っている。
一方で獄寺は、居心地の悪さを感じていた。静まり返った会議室の空気はピリピリとして、居たたまれない。座り直そうとして尻を浮かしかけたところで、とうとう綱吉が深い深い溜め息を吐き出した。
「……やはり囮は、使わないでおこう。後日改めて、皆と協議をしたいと思う」
眉間に険しい皺を作った綱吉がそう告げて、話し合いは終了した。
出席した面々が何とも言えない表情で会議室を後にしていく。時間を作って集まったというのに、何の結果も得られなかった。無駄足を運んだとばかりにレヴィが肩をいからせ去っていく。炎真を従えたアーデルハイトはカツカツとヒールを鳴らしながら足早に去っていく。
綱吉の横顔は明らかに怒っていた。
なかなか自分の思い通りにならないものだなと獄寺は、ほぞを噛むような気持ちで想い人のすらりと通る鼻筋から頬にかけてのラインをじっと見つめる。
右腕として、ボスに何もかも委ねておけばよかった。余計なことを言って会議の進行を妨げるようなことをしてらならなかったのだ。
とまれ、自分の気持ちを圧し殺してまで綱吉に従うのも納得がいかない。普段ならここまで悩むことはないが、今回ばかりは自分自身のオメガという性が深く関わっているのだから仕方がない。
会議室を去っていく人々の後姿をぼんやりと眺めながら獄寺は、静かに息を吐き出した。
囮作戦が却下されても、一人で行動を起こすことはいくらでもできる。
夜の街に飛び出した獄寺は、深夜営業の喫茶店やバーの灯りが煌めく繁華街を先程から行ったり来たりしている。随分と遅い時間になったというのにこの辺りは行き交う人も多く、時折、風に紛れてアルファのにおいがふわりと漂ってくることもある。
昨夜のことを考えると、オメガの自分にはどこもかしこも危険でしかない。だが、綱吉のそばにいることはできない。もちろん既に決まった番のいる白蘭のアジトにもう一晩泊めてもらうことも、だ。
いったいどこへ行けばいいのだろう。
このままオメガ狩りの連中が動くのを待ってただあてもなく街をうろついているだけでは労力の無駄になる。もっと熟考しなければ。連中の狙いが何なのか、獄寺には明確なことはわからない。ただ連中が、無作為にオメガを狙っているとしか……。
その瞬間、獄寺の頭の中にふと山本のことが浮かんできた。オメガ狩りが横行した日には必ずと言っていいほど彼は現場へと出動している。
連中は本当に無差別に狙っているのだろうか。特定のオメガを狙っているとしたら、どうだろう。
いや、そうではない。
もしこのオメガ狩りに山本が関わっているとしたら、無差別に狙うことはしないだろう。彼は、待っているのだ。どこの馬の骨ともしれないオメガが綱吉の番となるよりは、男であろうと守護者の一人から綱吉の番となる者が現れることを、山本は期待している。この全てを山本一人が企んだとすれば。もし、そうであれば。
だったら、と獄寺は舌打ちをする。
今、自分が夜の街を訳もなく徘徊していてもオメガ狩りに遭遇することはまずないだろう。
山本の第一の狙いは獄寺を綱吉の番にすることだ。他のオメガを排除するのは二の次、三の次でしかないはずだ。
いや、しかし。本当にそうなのだろうか。
実際に山本がそんなことを考えているとして、だ。本当に実行するような男だろうか。
学生の頃から山本との付き合いはあるが、そこまで親しくない獄寺にはわからない。親密さで言えば綱吉のほうが山本とは深い付き合いをしていたはずだ。何せ二人は学生時代からの親友なのだから。
ガードレールに腰かけた獄寺がぼんやりと煙草をふかしていると、風に乗ってアルファのにおいが流れてきた。うっすらとだが、ここからそう遠くないところにいるらしい。
「場所替えするか」
ここにいても収穫はないかもしれない。
そんなふうに思い、獄寺はノロノロとガードレールから離れる。
歩き始めた獄寺の頬に、不意に雨粒がぽつりと落ちてきた。
「あ?」
夜の街に降り出した雨は冷たく、あっという間に雨脚は早まりだす。針の先のように細い雨は容赦なく獄寺の体温を奪い取り、身体の芯から凍えさせようとする。
土埃の入り混じった雨のにおいを感じながら獄寺は、繁華街を足早に通り抜けようとする。先ほど感じたアルファのにおいはもう感じられない。きっと、この雨でどこかへ移動したのだろう。
自分も早く雨宿りができる場所を見つけよう。
そう思って獄寺はさらに足取りを早める。
ここからなら、あそこが近いだろうか。気紛れに立ち寄ることのある、深夜営業の無国籍風のバーだ。あそこなら、通り一つ向こうの路地裏の細道を抜けたすぐ先にある。そう遠くはない。
「仕方ないな」
ポツリと呟き、獄寺はジャケットを脱ぐと傘代わりに頭を覆い、駆け出していた。
いくら近いといってもずぶ濡れはご免だ。
細く暗い夜道を駆け抜け、通りを抜ける。途中、ふわりと漂うアルコールと生ゴミのような饐えたにおいに少しばかり顔をしかめながら、獄寺は細道を飛び出す。目的の店がある通りは人気もなく、ただ雨の音だけがザアザアとやかましく、耳障りだった。
(2019.5.7)
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