どこにも帰さない6


  綱吉の別邸で獄寺が過ごすようになって、三日が過ぎた。
  主治医としてシャマルがすぐ近くに待機してくれているというのは、ある種の安心感があった。
  ビアンキとクロームはそれぞれの居場所へと戻っていったものの、何かあったらいつでも連絡をするようにと獄寺にメッセージを残していた。
  綱吉とはまだ一度として顔を合わせていない。何度尋ねてもシャマルは、綱吉はヤボ用で出かけていると返すばかりだ。
  もっとも、獄寺にしてみれば発情期のみっともない姿を綱吉に見られずにすんでよかったのかもしれない。熟れてぐだぐだになったいらやしい姿を見られるのはご免だったし、同情されるのはもっと嫌だった。正直なところ今はまだ、綱吉と顔を合わせられるような状態ではなかった。
  発情期の熱をシャマルに手伝ってもらいながらなんとか発散し、物足りないながらも少しずつ獄寺は発情期をやり過ごしつつあった。相変わらずシャマルは玩具を使うやり方でしか獄寺を満足させてくれなかった。いっそ抱いてくれれば身体の熱の収まりは早かったかもしれないのにと恨めしくも思ったが、昔と同じでシャマルは頑なだった。
  さらに一週間が過ぎても綱吉は屋敷にやってこなかった。他にもやるべきことが山積しており、多忙を極めているのだと言ったのは誰だっただろう。
  見舞いに顔を出してくれるのは、今回の件に関わりのある姉のビアンキかオメガのクロームだけだ。退屈なまま時間は流れていき、無駄に日々は過ぎていく。
  こんなふうに部屋にこもって発情期を過ごすのも久しぶりすぎて、頭が痛くなりそうだ。
  このまま、自分はオメガとして綱吉のお荷物になってしまうのだろうか。ふと、そんな考えが頭をもたげてくる。そういった不穏な考えが一度でもこみあげてくると、もう駄目だった。後は後ろ向きな思考に頭の中を支配され、悩み続けるばかりになってしまう。
  ベッドの中で込み上げてくる淫らな熱をやり過ごしながら獄寺は、不安な思いを抱えて残りの発情期を過ごさなければならなくなってしまった。
  そんな時に、骸が訪ねてきた。
  クロームと一緒にやってきた骸は、ヴェルデの新しい発明だと言って獄寺に土産を手渡してきた。先日のお詫びにと骸は言っていたが、本当かどうかは怪しいところだ。
  手渡された小さな箱は、見た目ほど重くはなかった。中に何が入っているのかわからなかったが、振ればカタカタと音がした。かと言って、軽いわけでもない。ちょうどスマートフォンぐらいの重さの何かが入っているようで、獄寺の興味がそそられるものだった。だが、いくら興味をそそられると言っても、ヴェルデの発明となれば警戒する必要も出てくる。結局、獄寺はもらった手土産をクローゼットの片隅に放り込んで、その存在自体を忘れてしまうことにした。
  そんなふうにして骸の謝罪をも記憶の隅に押し込めてしまうことで獄寺は、今回の一件を水に流してしまおうとしたのだ。もちろん、骸と雲雀に対するわだかまりは残るだろう。だが、そうすることでボンゴレのためになるのなら、獄寺は喜んで二人から受けた仕打ちに目を瞑ろうと思ったのだ。
  許してやるわけではない。いまさら、何もなかったことにできるはずもない。ただ、仲間としてやっていくためには必要なプロセスだと思うことはできそうだった。だからそうするのだ。綱吉のために。



  目が覚めると、獄寺はベッドの中にいた。
  酷く喉が渇いていた。
  発情期の熱が身体に回っているのが感じられたが、喉が渇いてたまらない。のろのろとベッドから身を起こすと、獄寺は部屋を後にする。
  部屋を出ると、目の前には広い廊下が続いていた。
  静まり返った屋敷の中のどこかにシャマルがいるはずだ。それに、獄寺やシャマルの身の回りの世話をする者が何人か。気配はしている。皆、忙しそうに立ち居振舞っているが、まだ一度として誰も獄寺の目の前に姿を現したことはない。きっと、オメガに対する気遣いというやつだろう。
  もたつく足取りで獄寺は屋敷の中を歩き回った。自分の部屋があるのは二階だということは窓の外の景色でなんとなく予測がついたが、屋敷の中でどのあたりに位置するのかはわかっていなかった。
  まずは隣の部屋から初めて屋敷の見取り図を頭の中に描いていく。
  一階へと続く階段を見つけた獄寺は、手すりを掴んでゆっくりと階段を下り始めた。まだ誰とも顔を合わせていない。だが、一階のほうからは何人かの人の気配がしてきていた。
  獄寺はふと、幼い頃を思い出した。
  母が亡くなり、父と異母姉と三人で、あの広い屋敷で生活をしなければならなかったあの頃、使用人の気配を常に感じながら獄寺は日々を過ごしていた。
  大嫌いだった。
  何もかもが、嫌で嫌で仕方がなかった。
  目に入るものすべてが厭わしく、獄寺は常に憤りを感じていた。
  今、獄寺は恵まれた状況にいる。ボンゴレの守護者として、綱吉のそばにいることができて幸せだと思う。オメガだとバレさえしなければ、おそらくはいつまでも綱吉の隣で右腕として采配を振るっていられただろう。いや、違う。今だって獄寺は、綱吉の隣に戻ることをずっと考えている。オメガとしてではなく、一個の人間として、綱吉のそばにいることができたなら、と。
  階段をすべて下りきると、そこは玄関ホールだった。
  ホールの奥のほうから人の気配がするから、きっとそちらのほうに使用人がいるのだろう。何人ぐらいだろう。少なくとも、三人はいるように思える。
  それよりも、水だ。
  ようやく獄寺は本来の目的を思い出して、奥のほうへと足を向けた。
  玄関ホールを出ると廊下の突き当りに、シャマルがいた。メイド服に身を包んだ娘に親しげに話しかけている。いつもとかわらないシャマルの様子に、獄寺は小さく苦笑した。
  声をかけようかどうしようかと迷っていると、背後からポン、と肩を叩かれた。
「獄寺くん」
  艶めいた声に、獄寺の心臓がドキリと大きく脈打つ。
  綱吉だ。
  忙しいから当分は会えないだろうと思っていた。シャマルもそう言っていたから、しばらく顔を合わす機会はないだろうと思っていたのに、どうしてここに。
  恐る恐る獄寺は背後を振り返った。
「じゅ……十代目……」
  弱々しい声が出た。
  再会の時はもっと感動的なことになるのではないかと獄寺は勝手に思い込んでいたが、そんなことはなかった。いつものように綱吉は気軽に獄寺に声をかけてきた。今までとかわらない、穏やかなヘイゼルの瞳が獄寺の目を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「調子、どう?」
  綱吉のこの様子は、ただ純粋に、獄寺を心配しているだけだろうか。それとも獄寺がオメガであることを知って、距離を置こうとしているのだろうか。どちらだろう。
  綱吉の目を覗き返しながら獄寺は考えた。
「まだ、少し……」
  獄寺はボソボソと言葉を返した。
  綱吉は「そう」と呟くと、獄寺の腕を軽く掴んでくる。
「喉が渇いた? 水、もらってこようか?」
  甲斐甲斐しく尋ねられ、獄寺は申し訳なさを感じると共に、戸惑いを感じた。
「あの……はい、喉が渇いてて……」
  身体の熱が、ぐん、と上がったような感じがして獄寺は、気が気でない。もしかしたらオメガのフェロモンが出ているかもしれない。発情期には、無意識のうちにフェロモンを振りまいていることがある。綱吉の前で、そんなみっともないことはしたくはなかったが、こればかりは仕方がない。
  だが、綱吉は獄寺を心配しながらもいつもとかわらぬ様子であれこれと尋ねてくる。だから余計に戸惑うのだ、獄寺は。
  獄寺の言葉を叶えるために綱吉は、廊下の突き当りにいるメイドに声をかけた。それから、シャマルにも。二言、三言言葉を交わしてから綱吉は、獄寺のほうへと戻ってくる。
「部屋に戻ろうか、獄寺くん」
  そう言うと綱吉は、獄寺の腕をやんわりと掴んで歩き出す。飲み物と軽食を、獄寺の部屋まで持ってきてもらうように綱吉は声をかけたらしい。
  獄寺は黙って綱吉に従った。
  ゆっくりとした綱吉の歩みは、獄寺を気遣ってのことだということはすぐにわかった。それにしても綱吉からは、アルファのにおいはまったくと言っていいほど漂ってこない。フェロモンを抑える薬でも使っているのだろうか。
「あのっ……」
「疲れた?」
  同時に口を開いてしまい、一瞬、居心地の悪い空気が漂う。
  あはは、と空笑いをして綱吉は獄寺に先に話すようにと促した。
「あ、いえ、たいしたことではないんです」
  仲間で友人だと思っていた獄寺がオメガだと知って、綱吉は幻滅していないだろうか。他の守護者を見ても、オメガ性を持つ者は一人としていない。オメガというだけで嫌悪感を持つ者も存在する中で、獄寺の存在が快く受け入れられているかというと、必ずしもそうではないだろうと思われる。骸のように利用しようとする者しかり、雲雀のように興味を持つ者しかりだ。
  獄寺は、隣を歩く綱吉にちらりと視線を走らせた。
「あの……オメガばかりが狙われるというあの件、どうなりましたか?」
  クロームを守るために骸は、獄寺を囮にしようとした。囮が必要なほど、事態は逼迫しているのだろうか。
  綱吉は小さく肩を竦めると、困ったように笑みを浮かべた。
「残念なことに、まったく進展はしていないんだ」
  あちこちでオメガを狙った悪質な事件が拡大していた。被害のほとんどが性的犯罪で、これまでにも何人ものオメガが被害に遭っている。
「俺が……囮に、なれば……」
  ポツリと言いかけて、強く腕を引かれた。
「獄寺くん。君は、オメガとしてまず体調をととのえるところからだ。前線に復帰したいなら、しっかりと自分の身体のリズムを取り戻さないとね」
  そう言うと綱吉は、にこりと微笑む。
「獄寺くんがいないと、やっぱり大変でさ……」
  困ることだらけだよ、と綱吉はやんわりと笑ってみせる。その笑みに獄寺は、先程から二人の間に漂っていたぎこちない空気が解れていくような気がした。
  自分は守護者として、綱吉のそばにいてもいいのだ。綱吉は、オメガだからと獄寺を排除することはなかった。体調が元に戻れば、すぐにでも綱吉は獄寺をこれまで通りに扱うだろう。オメガだからと不安に思わなくてもいいのだ。
  獄寺はこっそりと、安堵の吐息をついた。
  隣を歩く綱吉は、いつもとかわらない笑みを浮かべて話しかけてくれている。
  これまでとかわらない穏やかな空気が、とても愛しく思える。
「すぐですよ」
  獄寺は言った。
「すぐによくなりますから」
  それは、獄寺の切実な願いでもあった。発情期のサイクルは、骸と雲雀によって強引に引き起こされたものだった。これを元に戻そうとすれば、どうしても歪みが出る。崩れた身体のリズムは不協和音を奏で、なかなか元に戻ろうとはしてくれない。もどかしくてたまらなくなるのを、獄寺はぐっとこらえている。
  早く元のようになって、右腕として綱吉の隣に立ちたい。胸の内でそう呟くと、獄寺は無理に笑みを浮かべた。
  ニカッ、と獄寺が笑うと、綱吉はわずかに表情を曇らせた。
「まあ、期待しないで待ってるよ」
  本気なのか、冗談なのか。どうにも綱吉の表情が読めない。
  やはりオメガである自分に対して綱吉は、距離を取ろうとしているのかもしれない。そんな不安が獄寺の気持ちのどこからかふっと込み上げてきた。
「待っててくださいね、十代目」
  いつものように明るく告げると獄寺は、必死に足を動かした。
  ほんの何日か寝込んだだけだというのに、思ったよりも体力が落ちていた。のろのろと歩く足取りに不信感を抱かれないように、獄寺は歩くことだけに集中した。



(2016.8.22)


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