セカンド・キスでもいいから 1

  抱きしめてくる腕のぬくもりに、獄寺は寒くもないのに体をブルッと震わせた。
  頬が熱いのは、綱吉の顔がすぐ近くにあるからだ。
  頬をなぞる指が心地よい。覗き込む薄茶の瞳は、光線の加減か、時折、オレンジ色に煌めいている。
「好きだ、ってこんなに言ってるのに……これだけ言って信じてくれないのなら、オレ、どうしたらいい?」
  自嘲気味にそう言うと、綱吉は苦しそうに笑った。
「す、すんません」
  喉がカラカラで、なかなか思うように言葉が出てこない。
  覗き込む視線を避けるようにして獄寺は、伏し目がちにうつむいた。恥ずかしくてたまらない。
「謝らなくてもいいのに」
  ムッとして綱吉は、唇を尖らせる。
  もぞもぞと体を動かすと素早く身を退いた獄寺は、綱吉の手の届かない窓際へと移動した。
「──…俺には、無理っス」
  窓の外へと視線を向け、獄寺は告げる。
  昔から獄寺は、綱吉のことが好きだった。綱吉にはその気持ちを知られないようにしてきた。しかし、知られてしまった。いいや、いつの頃からかはわからないが、おそらく獄寺の気持ちは綱吉の超直感によって知られてしまっていたのだろう。
  獄寺はしかし、綱吉が笹川京子に想いを寄せていたことを知っている。中学を卒業し、高校に入学すると同時につき合いだした二人の関係が自然消滅したのは、ほんの少し前のことだ。
  二人はたぶん、好き合っていた。
  蚊帳の外でしかない獄寺が見ていても、二人は幸せそうだった。
  それがなぜ、今になって別れてしまったのだろうかと思う。
  気持ちの行き違いや、諍いがあったという噂も聞いていないし、そういったことで綱吉か京子のどちらかが悩んでいたとも聞いていない。むしろ二人の仲はうまくいっているようにしか見えなかった。
  それなのに、なぜだろう。なぜ、二人は別れたのだろうか。
  二十歳になるとすぐに婚約をした二人が四年の歳月を経て婚約を解消してしまうというのは、獄寺にしてみれば不思議でならない。
  なにが二人のあいだにあったのだろう。
「本当に、無理?」
  尋ねかける綱吉の瞳が揺らいでいる。明るいオレンジ、炎の色が瞳の中で煌めいて、獄寺はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。



  このところ、夕暮れの時間が早くなってきた。
  少し前までは夜になってもうっすらと汗ばむような気候だったのが、いつの間にかあたりには秋の気配が忍び寄っていた。ふと見ると、夕焼け空の下で中庭に植えられた木々の葉も鮮やかな緑からもの悲しい黄色へとかわりつつある。空の色もなんだかいつもと違うように見えて、獄寺は小さな溜息をついた。
  もう少ししたら、綱吉が視察から帰ってくる時間だ。
  出迎えのために玄関先へと続く階段をおりていくと、部下たちが集まり始めていた。
「出迎えご苦労様です、獄寺さん」
  近くにいた部下の一人に声をかけられた。獄寺は面倒くさそうに部下たちを一瞥すると、黙らせる。それまでボソボソと聞こえていた声が途絶え、あたりに静けさが広がった。
「戻ってきたね」
  いつの間に表へ出てきていたのか、獄寺の隣にフゥ太が来ていた。
「ああ……時間ピッタリだ」
  砂利道を走る車の音が聞こえてきたかと思うと、ヘッドライトの明かりが半月型になったアプローチを照らし出す。すぐに車は玄関前に停止した。
  部下の一人が、後部のドアを開けに駆け寄る。
「お疲れさまでした、十代目」
  物々しい様子で部下が声をかけるのに、ありがとうとやんわり微笑んで綱吉は車から出てくる。ふと顔を上げると、獄寺のほうへと視線を向けた。
「お疲れ、ツナ兄」
  獄寺よりも一歩前へ出ると、フゥ太が声をかける。
「ああ……うん、ただいま、フゥ太」
「視察はどうだった? 草壁さんが、明日でいいから状況を知らせてほしいって言ってたよ」
  草壁が……ということは、雲雀が報告を待っているということだ。獄寺はちらりと部下に視線を向けると、車を移動させるよう指示を出した。
「どうぞ、中へお入りください、十代目。お疲れでしょう」
  声をかけると獄寺は、さりげなく綱吉の背後に立つ。
  車が発進すると、部下たちも一部を除いてその場を引き上げていく。引き続き警備の任務がある者、これでシフトが終わりの者が声をかけあいながら四散する。
  獄寺の本来の任務は、少し前に終わっている。
  しかし綱吉が視察から戻ってきたとなると話は別だ。
  勤務時間は終わっても、綱吉の側にいることが右腕である自分の務めだと獄寺は思っている。
  屋敷の中に足を踏み入れると、さっそく食堂へと移動する綱吉の後を追って獄寺も足を速めた。



  一人の食事は味気ないと綱吉はいつも言う。
  だからいつも、綱吉にあわせてフゥ太とランボが一緒に食事を取る。アットホームに、守護者や仲間を交えて食事を取ることもあった。
  先に食事をすませていた獄寺は、手持ち無沙汰に食堂の隅に立ち尽くした。
  ボンゴレ十代目の警護のためだと言うものの、綱吉はそれが気に入らないようだ。
「ねえ、獄寺君。一緒に食べようよ」
  どうせ携帯食だろうと、綱吉に意味深な視線を送られた。素知らぬふりをして獄寺は、曖昧にはぐらかす。獄寺が任務の合間に食事を取る時はたいていが携帯食だということは、周知の事実だった。効率よく時間をやりくりしようと思うと、どうしても携帯食のほうが都合がいいというだけだ。
「隼人兄、せめてサラダだけでも食べない?」
  フゥ太が声をかけてくる。
  先手を打って綱吉が、給仕をしていた部下に獄寺の食事も用意するように声をかける。
「ほら、早く座って」
  急かすようにフゥ太が言い、獄寺は渋々ながらテーブルにつく。眠そうな目をしたランボが、ニヤニヤと訳知り顔で笑っていた。



  食事の後で綱吉は、執務室に向かった。
  フゥ太とランボはそれぞれすることがあるからと、自室に引っ込んでいる。
  屋敷の中での綱吉の警護は必要としなかったが、獄寺も一緒に執務室へと足を向けた。
  日中、屋敷の中で働いている部下たちの半分は帰宅し、残りの一部は屋敷の警備に出ている。それ以外で警備を外れる者は別棟で休んでいるからだろうか、屋敷の中は昼間に比べると静かだ。
「今日の視察は疲れたよ」
  執務室のドアが閉まると同時に、綱吉が呟いた。
「なにか困ったことでも?」
  上着を脱ぐと綱吉は、ソファの背もたれに無造作に投げ出した。それを皺になるとばかりに獄寺はさっと拾い上げる。
「なんで京子ちゃんと婚約解消したのか、って。その話ばっかりで参った」
  そう言って綱吉は、肘掛け椅子にドサリと腰をおろす。その様子から心底参っているらしいことは見て取れたが、獄寺には自業自得としか思えない。
  そもそも婚約を解消したのは、綱吉のほうからだと聞いている。
  親しい人間なら誰もが、二人の関係を知っていた。大学卒業後には結婚するだろうという噂は、公の事実でもあった。それを今さらひっくり返すなんてと獄寺は思う。
  いったいどういうつもりなのだ、と。
「たいへんでしたね」
  知らん顔をして獄寺は、綱吉の上着をコートハンガーにかけた。皺が寄らないように袖の部分を丁寧にくい、と引いて、軽くのばす。背後からの綱吉の視線を感じていたが、獄寺は気づかないふりをした。
  今はまだ、綱吉のほうへとすべての気持ちを傾けるわけにはいかない。
「おかげで、まだ胃が痛い」
  ブツブツと綱吉は不満を漏らす。
  婚約解消の真実は、獄寺も知らない。知っているのはおそらく、当事者二人だけなのだろう。二人ともこの件に関してはなにも言いたくないのか、貝のように口を噤むばかりだ。笹川京子に至っては、婚約解消の翌日には海外へと逃げ出してしまっている。とんでもない女だと思いながらも獄寺は、彼女のことを憎むことができないでいる。
  学生時代から彼女は、優しかった。一生懸命な綱吉の姿をただ見守るだけの存在だったが、彼女の存在があったからこそ、綱吉は強くなれたのかもしれない。
  たぶん、自分は一生、彼女には敵わない──獄寺はふと、そんなことを思った。
「では、俺はまだ仕事が残っているので、これで失礼します」
  振り返ると、獄寺は告げた。
  なにか言いたそうな綱吉の口元が、微かに動いたような気がした。



  獄寺が自室に戻ると、すでに時刻は深夜を越えていた。
  疲れたと思う。
  綱吉と笹川京子の婚約解消から日を置かずして告白され……自分はまだ、迷っている。
  本心では綱吉の気持ちに応えたいと思いながら、そうはできない現実に憤りを感じてもいる。
  好きなのに。こんなにも綱吉のことを想っている。中学時代、彼と出会ってすぐに好きになった。沢田綱吉という人間に惚れたのだ。その想いは次第に、男女の恋愛感情にも似たものへと変化していった。それから間もなくして綱吉が笹川京子とつきあい始めた時に、諦めたのだ。綱吉に対する恋愛感情は、胸の奥底に閉じこめてしまおうと、そう思ったのだ。
  ずっと堪えていた。綱吉への想いを自制していたというのに、今さらどうやって綱吉のことを恋愛の対象として見ろと言うのだろうか。
  ジャケットも脱がずに獄寺は、ベッドに仰向けに転がった。
  胸の内ポケットに手をやると、煙草を取り出す。
  一本だけ……そう思って火を点けたら、止まらなくなった。
  肺に広がる紫煙の香りに、なぜか涙が出そうだった。
  ひと箱すべて吸ってしまうと、顔に腕を押し当て、獄寺は泣いた。体が熱くて熱くてたまらなかった。
「じゅ…代、目……」
  掠れた声で呟くと、袖口でごしごしと顔を拭く。
  躊躇いながらも人差し指で触れた自身の唇の感触に、獄寺はそっと息を吐き出した。
  一度だけしたことのあるキスは、綱吉ではない人とのキスだった。
  昔のことだから今さらなにも思わないが、綱吉とキスをしたかったと獄寺は思った。
「十代目…──」
  呟くと、掠れた声が宙に散っていった。
  唇に触れる指の感触が、獄寺の体の熱をほんの少しだけ、上昇させた。



(2010.8.24)

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