セカンド・キスでもいいから 5

  目覚めは、頭痛と共にやってきた。
  耳の奥でドラムが鳴り響いているような感じがする。
  二日酔いではないと、獄寺は眉間に皺を寄せてみせた。
「痛……」
  喉も少し、痛いような気がする。きっと部屋の空気が乾燥していたせいだろう。どことなく喉がいがらっぽい。
  ベッドの中でごそごそとしながら、日の出を待った。
  寝返りを何度もうち、ベッドの上をコロコロと転がる。シーツが捩れてぐちゃぐちゃになるのがわかっていても、やめられない。部屋の空気はどこか埃っぽく、ここ最近は空気が入れ換えられていないことがわかった。しばらくベッドの中でもぞもぞとしていた獄寺だったが、朝日がカーテン越しに部屋の中へと差し込んでくると、すぐさま起き出して窓を開けた。
  さあ、と部屋の中に入ってくる風はひんやりとして爽やかだ。
  深呼吸をして獄寺は、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
  夕べは、服を着たまま眠ってしまったので着ていたものはよれよれになっていた。皺になったシャツをピン、と手で引っ張ってとりあえず見苦しくないようにすると獄寺は、ベッドの隅に脱ぎ捨ててあった上着を身に着ける。
  母屋に戻るのは気が引けたが、戻らないわけにはいかないだろう。
  ノロノロとした動きで部屋の戸締まりをすませ、離れを後にする。
  十代目はどうしているだろうと、獄寺は思う。
  夕べ、自分は綱吉から逃げた。あんなふうに逃げ出したことが、いまだかつてあっただろうか?
  ちらりと振り返った先、バルコニーの影から姿を現した綱吉が呆気にとられた表情で獄寺を見送っていたのを覚えている。
  申し訳なく思いつつも、あの時の綱吉の表情を思い出すと自然と獄寺の口元が緩んでくる。
  綱吉のあんな表情を見るのは、久しぶりだ。子どもの時以来だろうか。
  今の綱吉は穏やかで、人当たりがいい。キャバッローネの跳ね馬が若かった頃の雰囲気が、ちょうどこんなふうだろうか。この十年で綱吉は、どこから見ても頼もしく感じられるだけの貫禄もついた。どんどん自分から遠い存在の人になっていくような感じがして、少し寂しくもある。綱吉はこのまま、はるか遠い場所へ行ってしまうのだろうか? 自分などには手の届かない、遠い遠い場所へ……。
  あまり気乗りのしないノロノロとした足取りで階下へ降りると獄寺は、ドアを開ける。
  溜息を吐き捨てると、離れを後にした。



  母屋までの小道を歩きながら、獄寺は空を見上げてみる。
  ぷかぷかと浮かぶ雲が、のんびりとした速度で空を流れていく。
  あの雲は、周囲のざわめきに気持ちを乱されることはないのだろうか? 自分の気持ちがわからずに、苛々することはないのだろうか?
  混乱して、制御のできない気持ちというのは、どう扱えばいいのだろうか。
  はあぁ、と溜息をつくと獄寺は、立ち止まる。
  空を見上げたまま、小道の真ん中でゴロンと地面に仰向けに転がった。
  日差しは穏やかで、あたたかだ。太陽が上へ上へと進むにつれて、気温も上がってきているようだ。
  日差しが眩しくて、目の前に腕をかざした。
  それからもう一方の手で、自分の唇に触れてみる。
  綱吉ではない誰かに初めてキスをされた、唇。あの時の自分は、それがとても大人っぽく思えたものだ。キスをしたことがあると言えば、大人の仲間入りができると思い込んでいたのかもしれない。
  現実はしかし、そうではなかった。
  キスをする前も、キスをした後も、獄寺の日常はたいしてかわることはなかった。
  あの時、子どじみた思いだけで誰だか覚えてもいないような相手とキスさえしなかったなら……そうしたら自分は、もっと素直に綱吉に感情をぶつけることができていただろうか?
  地面の上で大の字になって、目を閉じる。
  唇に触れていた手も、地面の上に投げ出した。
  太陽の光があたたかかった。肌に降り注ぐ日差しが、なんとも心地よい。綱吉のそばにいる時も、こんな感じだと獄寺は思う。
  気持ちが穏やかになっていくにつれて、それまで騒がしかった胸の片隅も、落ち着いてくる。それでも、夕べ、ピアノを弾いたぐらいでは足りなかったのか、目が覚めてからも獄寺の心はざわざわと波立っていた。綱吉の制止を振り切って逃げ出したことに対する申し訳なさと罪悪感の入り混じったなんとも言えない感情が、いまだに胸の内でぐるぐると回っているような感じがする。
  大きく息を吸うと、草のにおいや太陽のにおいがした。それに混じって母屋のほうからは、ほんのりと甘い蜂蜜のような甘ったるい香りが漂ってきている。
  腹に手を当て、獄寺は息を吐き出した。
「……腹、減ったな」
  呟くと同時に腹がぐぅ、と鳴る。
  現金なもので、こんなに悩んでいる時でも人間というのは、一定時間になれば腹が減るのだ。
  もう一度、今度は諦めたように深い溜め息を吐き出すと、獄寺は起き上がった。
  母屋へと歩き出した足取りは依然として重かった。もしかしたら母屋には、綱吉がいるかもしれない。謝らなければと思いながらも、綱吉と顔を合わせるのが怖くもある。
  小道の向こうに見えてきた母屋の屋根を睨みつけると、獄寺は口の中に溜まっていた唾をゴクリと飲み込んだ。



  母屋に戻ると獄寺は、朝帰りの気まずさを誤魔化すかのようにそそくさと二階の自室へと向かう。
  部屋に備えつけられたバスルームでさっとシャワーを浴びると着替えをすまし、食堂へと続く階段を降りていく。階段を下りきったところで、ビアンキと鉢合わせた。
「あら、ハヤト。今朝は早いのね」
  そう言われて、離れで目が覚めたのが早い時間でよかったと獄寺はホッとこっそり胸を撫で下ろした。
「悪いかよ」
  それでも、子どものようにムッとして返してしまうのは、苦手意識の現れだろうか。姉から視線を逸らして獄寺が告げるのに、ビアンキは微かに笑った。
「いえ、別に。それより、もうじき朝食の時間よ」
  わかってると言いかけて、獄寺は小さく頷くに留めた。あまり子どもっぽい真似ばかりしていると、今度はそのことでからかわれそうな気がしたのだ。
  ビアンキと並んで食堂の入り口を潜る。
  二人が席につくと、待ちかまえていたように朝食がテーブルに並べられた。今朝は父の姿はなかった。
「お父様なら、あなたが帰ってくる前に出かけられたわ」
  さらりと告げるビアンキは、意味深な眼差しを獄寺へと向けた。
「別に。朝食の席に親父がいようがいまいが、俺には関係ない」
  わだかまりの原因がなくなったとは言え、気まずいことにかわりはない。毎朝、顔を突き合わせてはいるものの、ブスッと黙りこくったまま獄寺は朝食をとっていた。陰気くさい顔がないだけに、今朝はあの父親もホッとしているのではないだろうか。
「本当に?」
  覗き込むようにビアンキが獄寺の目をじっと見つめる。
  獄寺は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
  下を向いて目の前の食事を食べることに専念すると、自分の思考からビアンキを排除した。



  部屋の中でただダラダラと時間を過ごした。
  子どもの頃に夢中になって読んでいた本を棚から取り出すと、頁を開く。
  幼い頃には頁を捲るたびにドキドキしたものだ。その気持ちは今もかわることはない。しかし、今日は駄目だと獄寺は思った。目の前に書かれた文字を追いかけはするものの、頭の中に言葉が入ってこない。
  さっきから同じところを何度もなんども読んでいるはずなのに、これっぽっちも文章が頭の中に入ってこないのだ。
  綱吉のせいだと獄寺は思った。
  夕べ、綱吉に会ってしまったから、自分の心は散り散りに乱れている。
  なにをしていてもすぐに綱吉の顔が頭の中に浮かんできて、彼のことを考えてしまう。抱きしめられた時のぬくもりや、「好き」だと言われた時のあの穏やかな声を、思い出してしまう。
  本当に、無理?──綱吉にそう尋ねられたのはもう何年も前のような気がするが、実際にはそんなに時間は経っていないはずだ。
  無理なんかじゃないと、獄寺は呟く。
  本当は自分も、綱吉のことが好きなのだ。
  ただ、自分の中にあるちっぽけなプライドや何やかやが邪魔をして、綱吉に「好き」だと告げることができないでいるだけだ。
  ぼんやりとしていると、またしても無意識のうちに唇を指でなぞっていた。
  自分なりに気にしているのだ。
  綱吉でない誰かが触れた、唇。綱吉とはキスさえもしたことがない。実家へ戻る前に抱きしめられただけだ。
  十年も一緒にいたというのに、友人同士のスキンシップしかしたことがなかったというのが驚きだ。自分はずっと彼のことが好きだったというのに、邪な気持ちで綱吉の唇に触れることは一度としてなかった。
  それぐらい、綱吉のことを大切にしていた。
  いや、違う。自分の気持ちを守るため、大事に大事にしていたのだ。綱吉にさえ、自分の気持ちを押し隠して接していた。
  好きで好きで、たまらなかったから。
  ファーストキスを、覚えてもいない誰かにあっさり許してしまったことだけが悔やまれる。
  どうして綱吉のためにファーストキスをとっておかなかったのだろうと獄寺は溜息をつく。幼い日の自分はどうやら、自分を安売りしてしまっていたらしい。
  このことを綱吉に話したら、軽蔑されるだろうか?
  いっそのこと、軽蔑されればいいと獄寺は思う。そうしたら綱吉は自分から離れていき、自分はこのことで悩む必要もなくなるのではないだろうか。そうして二人は、よきボス、よき右腕で一生を終えました、めでたしめでたし、となるのではないだろうか。
  そんなことを考えながらベッドにゴロリと転がると、窓の外の景色が目に入ってきた。
  雲一つない真っ青な空が、窓の向こうには広がっている。
「十代目……」
  呟いて獄寺は、また唇に指で触れた。
  綱吉の唇を、確かめてみたい。キスしたい。抱きしめられたい。
  夕べ、あからさまに綱吉を避けて逃げ出してしまったくせに、そんなふうに綱吉を求める自分がいる。
  本当はあの時、綱吉の手を取りたかった。抱きしめられたかった。彼のにおいを鼻腔いっぱいに感じて、唇を合わせたかった。
  彼に、抱かれてみたい──
  はあぁ、と溜息をつくと獄寺は、ベッドの上を転がり、壁のほうへと向き直った。
  片手は唇に触れたまま目を閉じると、躊躇いがちにもう一方の手を股間へと向かわせる。
  布地越しにそっと触れると、股の間が熱くなっていた。



(2012.1.22)

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