セカンド・キスでもいいから 8

  実家での義務は果たした。
  ボンゴレの守護者としての責任も果たした。出張出張と言ってはいたが、なんのことはない、蓋を開けてみれば跳ね馬を始めとする同盟マフィアとの懇親会への出席と、それに先立てて行われた会議への参加だった。会議へは出席したし、同時にインターネットを利用したライブチャットでフゥ太も参加していた。懇親会のほうへはさすがに獄寺一人での出席となったが、感触としてはそう悪くはなかったような気がする。
  後は帰るだけだ、日本に。
  綱吉のそばに。
  今度、綱吉の顔を見たら、その時にはちゃんと答えを出さなければならないだろう。まずは、自分の正直な気持ちを告げることだ。それから、綱吉とどんな距離を保ちたいのかを説明しなければならない。わかってくれるだろうか? 一見すると優しげな綱吉だが、意外と頑固なところがある。獄寺の説明の仕方によっては、こちらが思ってもいないような無理難題を持ち出してくることもあるかもしれない。
  はあ、と溜息をつくと獄寺は、ボストンバッグに荷物をつめる手を止め、窓の外をちらりと見た。
  よく晴れた空には、雲一つ見えない。
  腹立たしいほどに清々しい空が広がっているだけだ。
  眉間に皺を寄せて荷詰めの作業に戻った獄寺は、苛立ちをぶつけるかのように荷物をぎゅうぎゅうとボストンバッグの中に押し込んでいく。
  それが終わると、部屋をざっと片づけた。どうせ屋敷で働く誰かがこの部屋を片づけにくるだろうことはわかっていたが、だからこそそれが気に食わない。他人に自分の身の回りのものを触られるのは、たとえここに戻ってくることがほとんどないにしても、許せないような気がしたのだ。
  そうやって自分の身の回りの荷物をひとつひとつ片づけていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「……あ?」
  この部屋に誰かが来ることは、滅多にない。
  屋敷の者たちは、常に苛立ちを隠さない獄寺に恐れをなして、なかなか近づこうとはしなかった。父やビアンキの命もあったのかもしれないが、誰もが獄寺に対して、腫れ物に触るような扱いをした。それがさらに獄寺の機嫌を悪くした。
  今さら言っても仕方がないことがだ、放っておいてくれればいちばんよかったのだ。
  片づけの手を止め、顔を上げると獄寺は、ドアを開けに行く。
「姉貴か?」
  不機嫌丸出しに呟いてドアを開ける。
  いつもとは異なる気配がして、獄寺は思わず後ずさりかける。
  今、いちばん会いたくない人物がそこには、いた。



  長い髪を後ろでひとつに纏めた笹川京子は、以前に比べると少しほっそりしたような印象を受ける。ドアの向こうにはてっきりビアンキがいるものとばかり思っていた獄寺は、驚いたように京子の顔をまじまじと見つめるばかりだ。
「久しぶりだね、獄寺君」
  京子が言った。
「なんで、お前が……」
  綱吉との婚約を一方的に破棄した京子の行方を、獄寺は聞かされてはいなかった。ただ、海外にいるとしか知らされていなかったが、まさかイタリアにいるとは思いもしなかった。
「ビアンキさんが誘ってくれたの。失恋旅行をするなら、是非イタリアにも来てほしいって」
  だからイタリアへ来たのだと京子は言う。ちなみに昨日まで彼女は、フランスにいたらしい。
「失恋旅行って……」
  それは違うだろうと言いかけた言葉を、獄寺は飲み下した。
  彼女がなにを考えているのか、獄寺にはわからない。どうしたいのか、どうしようとしているのか。綱吉のことを今も好きなのか、嫌いなのか。
「……とりあえず、中へ」
  京子を自分の部屋に入れるのは気が引けたが、この際だから仕方がない。使用人たちの口は堅かったが、こういうことは、念には念を入れすぎるほど入れても構わないだろう。顎でくい、と部屋を示すと、察しのいい彼女は小さく頷いた。
「お邪魔します」
  低く呟いて、京子が部屋へと入ってくる。
  獄寺の前を通り過ぎる京子の髪から、花のような柔らかで優しい香りがした。シャンプーのにおいだろうか。それとも、彼女自身がいつもこんなふうにいいにおいをさせているのだろうか。女というのは、こうも……。
  京子には気づかれないように、獄寺はそっと唇を噛み締めた。



  窓辺から表の景色を眺める京子は、やはり失恋したのだろうか、どこか寂しげな様子をしている。
  いったいどうしてと思わずにはいられない。
  あんなにも綱吉との仲はよかったはずなのに。それとも、傍目にはそう見えていただけで、実際は違ったのだろうか?
  何事にも、なかに入らなければわからないことがある。この二人もつき合っていくうちに、人には言えないようなあれやこれやがあったのだろうか。二人とも、どちらかと言うと温厚で争い事などからは一歩退いたような雰囲気を持っているが、どうにも我慢ならないことが……お互いに譲れないことが、あったのだろうか。
  あれこれ考えていると、京子が唐突に口を開いた。
「ツナ君は……いつも獄寺君のことを心配していたのよ」
  そんな話は聞きたくはなかった。
  綱吉だって一人の人間だ。いくら心酔している相手とは言え、綱吉の悪いところまでも余すとこなく獄寺は知っている。今さら他人に聞かされても、それがどうしたとしか言えない。
  だが、京子の口から聞く話は、獄寺の知らない綱吉の話だ。
  聞きたくないと、獄寺は息を喘がせた。
「ちょっと意地っ張りなところがあるから、正直に認めたくないんだよね、ツナ君は」
  だから自分から婚約破棄を言い出したのだと京子は告げた。獄寺のことを好きで好きで仕方がない綱吉の気持ちを、待ち続けるのに疲れたのだと彼女は言った。
「いつまでもツナ君とはいい関係を続けたいから、昔のように友だちに戻ることにしたの。そうしたら昔のように、一緒にいられる。ハルちゃんがいて、クロームちゃんがいて、女同士でわいわいやりながら、ツナ君のことを心配したり、みんなと一緒に遊んだり、喧嘩したり……そんな毎日が戻ればいいな、って思ったの」
  なにを勝手なことをと獄寺は胸の底で毒づいた。
  そんな都合のいいことを今さら言われても、じゃあ、自分はどうしたらいいのだ。京子は綱吉のことが好きで、綱吉は獄寺のことが好きで、獄寺は……自分は、綱吉のことが好きなのだ。
  こんなふうに女に身を引いてもらって、自分が恋人の後釜に納まるのは、どうにも腹立たしく感じられる。
「なんでそんなことを俺に話す?」
  今さら、と獄寺は呟いた。
  綱吉への気持ちなら、今にも溢れ出してしまいそうな状態になっている。これまで獄寺の想いに抑制をかけていた京子の存在が、婚約者からただの友人になってしまった今、自分はこれまでのようにいられないと獄寺は強く思う。
  このまま、綱吉をはぐらかすことも、自身の気持ちをはぐらかすことも、もうできない。自分には無理だ。気持ちを隠し通すことなんてできやしない。
  だらりと脇に下げた両手の拳をぎゅっと握りしめ、眉間に皺を寄せる。
「──…獄寺君も、ツナ君のこと、好きなんだよね」
  確かめるように京子はちらりと獄寺の目を覗き込んだ。
  胸の奥まで見透かされそうな、強い眼差しに獄寺は戸惑いを感じた。口の中にじわりと唾液が沸き上がってきて、ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込む。
「なっ……」
  言葉が、出てこない。
  そのまま固まってしまった獄寺に、京子はそっと微笑みかけた。
「ずっと、見てたよね」
  言われるまでもなかった。
  ずっと昔から獄寺は、綱吉のことを見ていた。
  本当に好きだったのだ。心の底から慕っていた。彼がボンゴレの次期十代目だと思ったその時から、獄寺にとって綱吉は、唯一の人となっていた。
  だから許せないと獄寺は思う。大きな顔をして、さも当たり前のように綱吉の隣に立っていたくせに、今更そんなことを言われても困るだけだ。
  だけどもっと困ったことに、彼女のことを心の底から嫌い抜くことができない自分もいる。
  仲間だから。綱吉が大切に想っていた相手でもあるから、余計に本気で嫌いになることはできない。
  握り締めた拳にさらに力を入れると、てのひらに爪を食い込ませる。
  どうしてこんな時にとかすれた声で呟くと、京子はゆっくりと獄寺のほうへと近づいてくる。
「ごめんね」
  その言葉に、獄寺の握り締めた拳が小さく震える。
「獄寺君、泣いているの? やっぱり獄寺君も、ツナ君のことが好きだったんだね」
  そうだよね? と尋ねる京子の言葉に、獄寺は大きく息をついた。唇が震え、目の奥がジワリと熱くなる。
  獄寺の頬を伝い落ちていく熱いものは、確かに涙だった。自分は、京子が言うように泣いているのだ。
  男が、こんなふうに女の前で泣くだなんてみっともない。
  しかも相手は綱吉の元・婚約者だ。
  みっともなくて、滑稽で。噛み締めた唇の端から、嗚咽のような神経質な震える笑い声が洩れた。
  京子の前に立つ自分が惨めで可哀想で、ならなかった。



(2012.2.28)

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