セカンド・キスでもいいから 14

  並盛の懐かしい景色は、朝焼けの中で淡い薔薇色に色づいていた。
  どこもかしこも、目覚める前の密かな空気に包まれているような感じがする。
  どこか遠くのほうで、窓を開ける音がしている。小鳥のさえずり、風が枝から枝へと渡る時の葉擦れの音、それから誰かの足音。
  静まりかえった商店街のアーケードを歩いていくと、新聞配達のバイクが後ろから走ってくる。キキッ、とブレーキをかけて新聞受けに新聞を投函し、また次の家へとバイクを走らせる。ジョギングをしているのは中年の男だ。のんびりと犬を散歩させている年寄りも歩いていた。
  皆、獄寺には見向きもしない。
  とは言うものの閉鎖的な無関心というわけではなく、住み慣れた街の日常がただ淡々と続いているだけに過ぎない。
  ほんの少し離れていただけだというのに懐かしく思える景色を横目でちらちらと眺めながら、獄寺は通りを歩いていく。アーケードを抜けて交差点を渡り、真っ直ぐに行くとお馴染みになった通学路が見えてくるはずだ。
  もうすぐあの人に会えるのだと思うと獄寺は、年甲斐もなくドキドキ、ソワソワとしてくる。
  なんだか一気に中学生の頃に戻ってしまったような気がして、気持ちが落ち着かない。
  交差点を渡った獄寺はいつもの道へは向かわず、綱吉が拠点とする屋敷へと足を向ける。
  綱吉から逃げてばかりいた自分がいきなり姿を現したりしたら、きっと綱吉は驚くだろう。
  これまでのところ、ビアンキもフゥ太も、獄寺を呼び戻すことに失敗している。
  獄寺の気持ちが頑ななことに二人とも気づいているだろうが、まさかこんなふうに気紛れに戻ってくるとは思ってもいないはずだ。
「悪いな、姉貴、フゥ太」
  ポソリと呟き、道の先へとじっと視線を向ける。
  朝焼けの光を受けた並木道の枝々の隙間から、日の光が零れ落ちている。綺麗だと素直に獄寺は思う。
  綱吉に会うにはまだ躊躇いが残っている。それでも、ビアンキとフゥ太の様子から獄寺は常とは異なる空気を読み取っていた。
  ただ、様子を見に行くだけだ。皆が元気にしているかどうか、確かめるだけだ。
  それだけの、こと。
  手にしたボストンバッグを反対側の手に提げ直すと獄寺は、歩き慣れた道を歩いていく。
  足取りが自然と速くなってしまうのは、綱吉に会いたいという本音の現れだ。こんなところにも自分の気持ちが溢れ出しているのだと思うと、どこかしら照れくさいような気がしてならない。
  木立の向こうに屋敷の屋根が見えてくる。
  もっと屋敷をよく見ようと顔を上げた獄寺の目に、木漏れ日が眩しい。
  目を細めて獄寺は、屋敷を見つめた。



  屋敷に辿り着いたものの、いつもと変わらない様子に獄寺はホッと息を吐き出した。
  ビアンキとフゥ太の二人が妙な電話を寄越したりするから、妙に気になって戻ってきてしまったが、もしかしたらあれは、獄寺を隠れ家から引きずり出すための演技だったのだろうか。
  だとしたら二人とも、随分と人が悪い。
  門扉の前に立つ警備担当は幸い、顔見知りの部下だった。さりげなく声をかけると、すぐに門扉が開けられる。
「お疲れさまっした、獄寺さん。今回の出張は長かったっスね」
  人懐こく話しかけてくる部下に適当に相づちを打ちながら獄寺は、自分が長期出張の扱いになっていることに気づく。ボンゴレの右腕が行方不明では、さすがに体裁が悪かったのだろう。こういうところに気が回るのは、悔しいが姉のビアンキかフゥ太あたりではないだろうか。そんな些細な気遣いに対しても、悔しいような嬉しいような複雑な気持ちを抱いてしまう。自分には少し天の邪鬼なところがあることはわかっているが、やはりこの二人には一度、きちんと礼を言っておいたほうがいいだろう。
  玄関の扉のところには、やはり警備担当の部下が配置されていた。
  軽く眼差しで頷きかけると、心得たものでさっと扉を開けてくれる。
「お疲れさまでした、獄寺さん」
  重々しい口調で部下が告げるのに軽く手を挙げて返すと獄寺は、屋敷に足を踏み入れた。
  しんとした屋敷の中は、いつも通りのようにも思われたし、そうでないようにも思われる。
  門扉の警備についていた部下から連絡がいっていたのだろう、すぐにフゥ太が階段の上に姿を現した。
「ハヤト兄!」
  二階の踊り場で小さく叫ぶなり、バタバタと足音を立てて階段を駆け下りてくる。
「転ぶぞ」
  これまでにも数度、綱吉が階段から転げ落ちている。ちょうど今のフゥ太のようにバタバタと駆け下りようとして、足を踏み外しているのだ。
「ツナ兄じゃないから大丈夫だよ」
  ニッ、と口元に笑みを浮かべたフゥ太はあっという間に階段を下りきると、獄寺の前にやってきた。
「お帰り、ハヤト兄。思っていたよりも早かったね」
  近くにいる部下に聞かれても当たり障りのない言葉でフゥ太が喋りかけてくる。
「報告は……」
「ああ、うん。ツナ兄からの指示が出てるから、上の執務室へ行こう」
  さりげなくその場を離れようとしているのが、獄寺にも伝わってくる。フゥ太はいったい、部下たちから何を隠そうとしているのだろうか。



  執務室に入ると、フゥ太が素早くドアに鍵をかけた。
  部屋の中には、既にビアンキと京子がいた。
  いったいどういう面々なのだと獄寺は思う。肝心の綱吉が執務室に不在だというのに、いったいどうしてこの三人と自分が同じひとつの部屋にいなければならないのだ。
「お帰りなさい、ハヤト。思っていたよりも早く戻ってきてくれて嬉しいわ」
  獄寺の顔を見た途端、ビアンキが声をかけてくる。
  ぶすっとしたまま「おう」と返す獄寺は、居心地悪そうに顔を背ける。何もかも見透かされているような気がして、どうにも正面から姉と向き合うことが照れくさく感じられた。
  顔を背けた先にいたのは京子だ。イタリアで会って以来だが、随分とやつれたような感じがする。イタリアを旅して回っていたのは、あれは傷心旅行だったのではないのだろうか?
「……イタリアで会って以来だね、獄寺君」
  視線に気づいた京子が声をかけてくるのに、獄寺は顔をしかめた。
  疲れたような、覇気のない声の京子を聞くのは、初めてだ。こんなふうに喋ることがあるのだとは、思ってもいなかった。獄寺の記憶の中の京子は、いつも綱吉の隣で明るく笑っていた。こんなふうに、沈んだ表情をする娘ではなかったはずだ。
  フゥ太のほうへと向き直った獄寺は、眉間の皺をいっそう深くした。
「どうして十代目はここにいないんだ?」
  本来ならば綱吉は、この執務室にいるべき人だ。どうして今、綱吉はこの部屋にいないのだろうか。
「それが……」
  言いかけたフゥ太を遮るようにして、京子が一歩、獄寺のほうへと進み出る。
「ツナ君は……」
  胸の前で作った京子の握り拳が、微かに震えていることに獄寺は気がついた。何を怯えているのだろうか。そう、彼女は確かに怯えている。しかしいったい、何に?
「あなたが責任を感じることはないわ、京子」
  感情を交えないビアンキの声が、獄寺の耳の奥に響く。
  何か、嫌なことがあったのだ。獄寺が戻ってくる前に、何か……そう、きっとあの電話の時には、事は既に起こっていたのだ。
「それって、どういうことなんだ?」
  この部屋にいる人間で知らないのは、おそらく獄寺ただ一人。他の三人は既に、綱吉に何があったかを知っているはずだ。
  何故、自分だけが知らされていないのだと言いかけて、獄寺は寸でのところで唇を噛みしめる。
  自分が彼らを責めるのは、お門違いだ。彼らはちゃんと綱吉の側にいて、彼に助けが必要な時には動けたはずだ。
  だが、自分はどうだろう。十代目の右腕だと豪語しながらも綱吉の側にいることもせず、一人でこそこそと隠れ家に籠もって怠惰に過ごしていたのは、いったいどこの誰なのだ。自分の責務を放棄して、綱吉を一人にしてしまった。ボンゴレのボスを守るどころか、危険の中に置き去りにして、自分はいったい何をしていたと言うのだろうか。
  それとも、獄寺が思っているようなことではなく、京子と綱吉のよりが戻ったのだろうか?
  男の自分などよりも、女の京子のほうがいいということに、綱吉もようやく気がついたのだろうか?
「ごめんなさいね、ハヤト。あの時、電話で話そうとしたのだけれど……」
  聞きたくないと獄寺は思った。
  誰の言い訳を聞いても、思うことはただひとつだけ。身勝手なことをして並盛を離れた自分の責任でしかないだろう。誰も、悪くはない。もちろん綱吉だって悪くはない。京子とよりが戻ったのだとしたら、逆にめでたいことではないか。これでボンゴレも安泰だ。笑って二人を祝福してやらなければいけないのだ、自分が。
「話を……フゥ太。詳細を聞かせてくれ」
  喉の奥から絞り出すようにして声を押し出すと、掠れて、震えていた。みっともない。獄寺は三人の視線から逃げ出すように、窓際に佇んだ。
「私たちは席を外すわ、フゥ太。ハヤトにすべて伝えてくれる?」
  窓ガラスに映るフゥ太が、ビアンキの言葉に小さく頷いた。
  ビアンキが京子の肩にそっと腕を回し、守るようにして部屋を出ていく。
  パタンとドアの閉まる音がして、獄寺は自分が、幸福から拒絶されてしまったかのような気がしてならなかった。



(2012.6.11)

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