セカンド・キスでもいいから 2

  キスをしたことがある。
  綱吉ではない他の誰かとのキスは、獄寺の心を大きく揺さぶった。
  単なる興味本位で交わしただけのくちづけに、いまだに獄寺は心臓を締めつけられそうになる。従順な右腕のふりをして、その裏で自分は綱吉を裏切っているのだと思うとそれだけで後悔で胸が苦しくなる。
  裏切るつもりはなかった。
  ただ、キスとはこういうものだと理解したかっただけなのかもしれない。
  味気ないと当時の獄寺は思ったものだ。唇と唇が触れ合い、そこからなにかが生まれるのかと思ったが、単なる接触にしかならなかった。触れただけ。感動も嫌悪も、なにも感じることはなかった。もっとも、ほんの少しだけ、相手に対して気まずい思いを残したものの、それさえも時間がたてば消えていった。
  大人になった今、どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのだろうと思う。この唇は、綱吉のためにとっておけばよかったのに、と。
  叶うかどうかわからない恋だったから、むざむざ他の相手に唇を許してしまったが、今になって綱吉が言い寄ってくるとわかっていたなら、キスなんてしなかっただろう。
  はあ、と溜息をつくと獄寺は、腕時計に目をやる。
  綱吉は別室で同盟マフィアのボスたちと会食中だ。
  控え室で待機しているのは、同盟マフィアの幹部連中ばかりだ。お互い、ここぞとばかりに雑談に織り交ぜた情報交換に勤しんでいる。
  こういったことは、山本やフゥ太のほうが得意なはずだ。
  まだもうしばらくかかるのだろうかと獄寺は、またしても腕時計に目を馳せる。
  居心地が悪いのは、さきほどからちらちらとこちらを見る不躾な視線のせいだ。昔なら、ちらりとこちらへ視線を飛ばされただけで喧嘩を吹っかけて回っていた。そうもいかなくなってしまったのは、獄寺が大人になったからだろうか。
  そわそわと窓の外へと視線を馳せると、表の景色に集中しようとする。
  会食はまだ、終わらない。



  ふとバックミラー越しにバックシートを覗き込むと、綱吉は眠っていた。このところ過密スケジュール気味だったから、疲れているのだろう。
  口を真一文字に引き締めたまま眠る姿は、先ほどの会食での緊張を残したままのような気がして、獄寺は眉間に皺を寄せた。
  車を路肩に寄せると、あらかじめ用意してあった毛布を取り出し、綱吉にそっとかけた。
「お疲れさまです、十代目」
  獄寺が小さく呟くと、その声が聞こえたのか、綱吉の口元がわずかに緩む。すう、と寝息を立てて、今度こそ綱吉は深い眠りに落ちていく。
  屋敷に着くまでの時間がもっと長ければいいのにと獄寺は思う。
  綱吉にはゆっくりと休んでもらいたい。今の彼は、忙しすぎていつもなにかに苛立っているように見えた。なにに対して苛立っているのか、それはわからない。わからないが、獄寺はその苛立ちを自分が少しでも引き受けることができればと思っている。
  運転席に戻った獄寺は深い溜息をつくとハンドルに肘をつき、その上に額を押し当てた。
  もっと、頼りにして欲しい。
  守護者として、信頼されているとは思う。しかしその信頼は、右腕に対する特別な信頼というわけでもなく、綱吉はいつも分け隔てなく誰とも等しく接しようとしている。少なくとも獄寺には、そう思われた。
  ──自分だけが特別、ってわけにはいかねえからな。
  口の中で小さく呟くと、無理にでも自分を納得させようとする。
  自分のことを好きだと言うのなら、もっと信頼してくれてもよさそうなものなのに。
  なにも、あからさまな依怙贔屓をして欲しいと言っているのではない。右腕としてもっと信頼してもらうことができたなら、そうしたら綱吉の言葉ももっと真摯に受け止めることができたかもしれない。好きだと言われて、素直にその気持ちに応えることができていたかもしれない。
  はあ、と吐き出す息が、微かに震えている。
  泣くものか。
  獄寺は唇を噛み締めた。



  自室に買い置きしている携帯食は、なんといっても便利だ。パサパサとして味気ないのは仕方がない。しかしなにも食べないよりは片手間に食べられるレーションバーを食べているだけマシだろうと獄寺は思う。
  クッキータイプのレーションバーは硬かった。いくつか味に種類はあったが、どれも似たり寄ったりだ。味は粉っぽくて不味いし、口の中はモサモサするしで、いいことと言えば手早く食事を済ますことができてかつ栄養もとれるといった点だけだ。
  ストックしてあるレーションバーと常温のままの缶コーヒーで適当に遅い夕食をすませると、獄寺は机に向かった。
  ノートパソコンの電源を入れると、少し前から取りかかっている任務の中間報告のデータを立ち上げる。
  机の端に置いてあった眼鏡ケースから黒縁の眼鏡を取り出す。ほっそりとした華奢なフレームは少し野暮ったく見えないでもないが、獄寺はこの眼鏡が気に入っている。なにより、仕事をするのに見た目は関係ないだろう。要は見えればいいのだと獄寺は眼鏡をかける。
  ディスプレイの向きを調節すると、画面をじっと見つめる。書き上げた文章を見直しているうちに、気持ちが報告書に集中していくのが自分でも感じられた。
  少し前から、同盟ファミリーの中で不穏な動きが見受けられた。そのことについて、獄寺は独自に調査を進めているところだった。もちろん、裏では雲雀を始め、フゥ太やビアンキたちが動いてくれていることはわかっていたが、それでも獄寺は自分にできることをしたいと思っていた。
  夕方の会食でそれとなく様子を探ってみたが、気にかかるような素振りのファミリーはなかった。控え室に集まった幹部連中にしても、それといった様子の者はいなかった。
  単なる気のせいだろうか?
  それとも、敵はもっと根深いところで動いているのだろうか?



  翌日は、獄寺の気持ちをそのまま表したかのような曇天が空いっぱいに広がっていた。
  少し早めの朝食を、獄寺は食堂で取る。綱吉はいなかった。綱吉が起き出す時間はもう一時間ほど後になるはずだ。それを狙って獄寺は食堂に降りてきたのだから、当然だろう。
  一人で食事をとっていると、フゥ太がやってきた。
「おはよう、ハヤト兄。今朝は早いんだね」
「今日から海外出張だからな」
  昼前に屋敷を発てば、飛行機には間に合うはずだ。今回の渡航は獄寺の里帰りも兼ねている。もしかしたら、どこまでが仕事でどこからがプライベートなのか、獄寺にもわからなくなってくる瞬間があるかもしれない。その時に、自分は綱吉に忠実な右腕でいられるだろうか。
  頭の隅を過ぎる考えに、獄寺は小さく首を振った。
  自分はいつだって、綱吉に忠実な右腕だ。彼を裏切るなど、考えられないことだ。
「今度はどれくらいの期間?」
  尋ねかけてくるフゥ太の声に、獄寺ははっと我に返る。
「あ…ああ、多分、一週間ぐらいかな」
  里帰りも兼ねているから、正確にはわからない。ビアンキなどは、二週間ほど実家にいればいいのにと空恐ろしいことを口にしてくれた。そんな長い期間、実家にいられるわけがないと獄寺は密かに毒づく。あの、どことなく重々しい空気が苦手でたまらない。父とのわだかまりは昔に比べると少しはマシになったものの、相変わらず獄寺にとって実家は鬼門に近い場所となっている。
  そんなに長い間、実家で過ごすことができるはずがないだろうと獄寺自身が思っているのだ。
「ハヤト兄がいないとツナ兄の機嫌が悪くなるから、早く帰ってきてね」
  フゥ太がポソリと言った。
  獄寺はなんと言って返せばいいのか、わからなかった。



  綱吉とは顔を合わさないままに獄寺は出張へ出かけてしまった。
  特に用事があったわけではない。しかし、出かける間際に綱吉の顔を見たいような見たくないような気になって、結局、会わないままに屋敷を後にしてしまった。
  今生の別れではないのだからそう気にすることもないだろうと思いながら、綱吉に会えなかったことを残念に思う自分がいる。
  寂しい。
  そう、寂しいのだ、自分は。
  綱吉に会えなくて、彼のあの穏やかな声を耳にすることができなくて、寂しくてたまらない。
  つきあうことはできないと、はっきり言ったはずなのに。
  それなのに自分は、なんと身勝手な人間なのだろうか。
  身勝手で、我が儘で、狡い人間だ。
  つれない態度をとっておいて、その裏で綱吉のことが欲しいと思っているのだから。
  はあ、と溜息をつくと、車を運転していた山本が、ちらりとバックミラー越しにこちらへと視線を馳せた。
「どうしたんだ、獄寺。シケてんのな」
  脳天気な物言いにムッとしながらも獄寺は、山本から目を離すことができない。
「ああ。ちょっと、な」
  綱吉のことで悩んでいるのだとは、口が裂けてもこの男には言えない。
「お前もツナも、おんなじような表情して悩み事か?」
  カラカラと笑いながら山本が言う。
「…るせぇ」
  チッ、と舌打ちをすると獄寺は、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出す。
「おっと、車内禁煙にご協力ください」
  ふざける山本をギロリと睨みつけると、獄寺は取り出した煙草に火を点けた。



(2010.10.8)

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