バルコニーの影になったところに隠れた獄寺は、苦行としか思えない時間をそこでやり過ごそうとした。
父との約束だから、パーティには顔を出さなければならない。だったら、一通り挨拶が終わるまでで充分だろうと、獄寺は最低限のことだけをこなすと後はバルコニーへと逃げ出してしまった。
ちょうどカーテンの影、柱のおかげで窪みになったところにそっと背を這わせ、会場から自分の姿が見えないように一歩下がって身を引く。
ガラス越しに聞こえてくる賑やかな声に、獄寺は小さく笑った。
やはりあの場所は、自分とは関係のない世界としか思えない。
さっさと会場を抜け出してしまうこともしようと思えばできたが、出入り口のあたりにはビアンキの命を受けた警備員がいた。おそらく裏口にもいるはずだ。と、すると、ここでおとなしくパーティが終わるのを待つほうが面倒臭くなくていいだろう。
くぐもった喧噪に耳を傾けながら、静かに目を閉じる。
今、この場に綱吉がいてくれたなら、きっとまた異なる光景が自分の前には広がっていただろう。綱吉がいれば、それだけで自分の世界は百八十度ころりと様相をかえる。なんだかんだと悩みながらも、やはり一緒にいてほしい人でもあるのだ。
フッ、と息を吐き出すと、スーツの内ポケットらか煙草を取り出す。残り少ない煙草に火を点けると、獄寺は口にくわえた。
退屈なパーティの終わりに、思いもかけなかった人を見つけてしまった。
まさかこんなところにいるとは思わなかった獄寺だが、見間違いと言うこともある。恐いもの見たさも手伝って柱の影から身を乗り出し、ガラス越しに部屋の中へと視線を走らせると、やはり知った顔がポツリポツリとフロアのそこここにいるではないか。
どうせ姉貴のヤツが……と思いながらも獄寺は、彼らから視線を外すことができないでいる。フゥ太にランボ、山本、了平……なんでこんなにいるんだと思いながらも、フロアへ出ていく気にはなれない。
それにしても、どうしてこんなに見知った顔が多いのだろうか。
「どういうことだ?」
父の招いた客に、彼らも含まれていたのだろうか。あるいは、姉の差し金? それとも……これはあまり考えたくないことだが、十代目になにかあったのだろうか?
こそこそとしていると、バルコニーの端のほうで人の気配がした。慌ててハッと振り返ると、間違いなく誰かがいた。
「……十代目?」
恐る恐る声をかけると、影がゆらりと動いた。暗がりに隠れて上半身が見えないのがもどかしい。
「十代目ですよね?」
嬉しい。だけど、怖い。顔を見てしまったら、自分の気持ちにはっきりと答えを出さなければいけないような気がして、怖くてたまらない。
「獄寺君……」
影が、一歩足を踏み出した。
「来ないでください、十代目」
今は駄目だと、獄寺は思った。
「獄寺君、オレ…──」
暗がりの中から聞こえてくる声は、やはり綱吉のものだった。
たかだか一週間離れていただけだと言うのに、こんなにも懐かしく感じるのは何故だろう。
わだかまりがなければ、すぐにでも綱吉に駆け寄っていたかもしれない。「十代目」といつものように声をかけて、犬コロのように懐いていっていただろう。
だけど、今は無理だ。気持ちの整理はまだなにもついていない。
「すんません、十代目」
獄寺はこっそりと唇を噛み締めた。
綱吉から逃げるようにしてパーティ会場を後にした獄寺は、中庭を走り抜けて屋敷の離れに逃げ込んだ。
今は、冷静に綱吉と喋ることなどできやしない。こんなに気持ちが乱れているのに、できるわけがない。
離れの一室に飛び込むと獄寺は、震える指先で煙草を取り出し、口にくわえる。
ライターを手にしたが、手が震えてなかなか火がつかない。最後は半ば自棄になってカチカチとライターの着火レバーを空打ちし続けるばかりだ。
「ちきしょっ……ちきしょう!」
呻くように口走り、その瞬間に口にくわえていた煙草をポトリと落としてしまう。衝動的に獄寺は、ライターを床に投げつけた。
カツン、と音を立ててライターが床の上を転がっていく。
気持ちを落ち着けるために獄寺は、はーっ、と息を吐き出した。
気持ちが落ち着いてくると、今度は屋敷の中の寒さに獄寺はブルッと身震いをした。
普段から離れには、あまり人の気配はなかった。定期的に人の手は入っていたが、ビアンキも獄寺も屋敷を出てしまった今はほとんど使われることもなく、母屋のように常に空調が稼動しているというわけでもない。
ひやひやとする空気に顔をしかめながらも獄寺は、あたりをゆっくりと見回した。
灯りをつけると、ここに自分がいることがバレてしまうだろう。だから敢えて灯りはつけなかった。窓から入ってくる月明かりを頼りに屋敷の中を移動していく。階段をあがって二階、適当に選んだドアを開けて部屋に入った。
部屋の中には、白いグランドピアノが一台だけ。
レースのカーテン越しに、月の光が部屋の中を青く照らしあげている。
「ああ……」
獄寺の口から、呟きが洩れた。
なんて美しいのだろう。
青く青く照らされた部屋の中へ、獄寺は足を踏み入れた。まるでピアノに招き寄せられるように、フラフラと近寄っていく。
ピアノの蓋を撫でると、艶やかな手触りに獄寺の身体が知らず知らずのうちに震える。
鍵はかかっていなかった。屋根を押し上げ、突き上げ棒を立ててその上にそっと乗せる。鍵盤蓋を開くと、適当に目にとまった鍵盤に触れてみる。
途端に濁りのない澄んだ音が響き、獄寺はそこで初めてホッとしたように口元を緩めた。 続けていくつか鍵盤を弾いてみる。どの鍵盤も申し分ない音色を響かせ、獄寺は満足そうに喉を鳴らした。
青い光のシャワーの中で獄寺はピアノに向かった。
無心で。余計なことはなにも考えずに、ピアノと向き合う。最初に鍵盤に指を乗せる瞬間は、いつも緊張する。周囲にはそう見えなくとも、獄寺自身は緊張していた。最初の第一音にありったけの気持ちを込めるため、深く息を吸い込む。ふぅ、と腹の底から息を吐き出し、吸い込む瞬間、指が最初の音を弾いた。
柔らかな甘い音が響き渡り、旋律を奏でだす。
自分の意志を離れて指先が自由に鍵盤の上を走り回り、音を紡ぎ出す。
紗がかかったような青い月の光がピアノも、獄寺の指も、そして獄寺自身も、青く染めていく。
響き渡るメロディに月の青が混ざり合い、高く音を響かせる。
激しいトリルも、震えるようなピアニシモも、獄寺の指先は正確に表現する。スフォルツァンドも、アレグロも……終焉へと向けて、着実に近づいていく。
この音が綱吉に届けばいいのにと獄寺は思った。
今の獄寺には、綱吉と顔を合わせるだけの勇気がない。だからかわりに、ピアノの音で綱吉に伝えたいと思った。自分の心の揺らぎと不安、それから希望を。
本当は、自分だって綱吉のことが好きなのだ。今はまだ、現実を受け入れられないだけで。
一曲目が終わると、獄寺は二曲目に移った。
指が覚えている曲を、自由に弾いていく。
頭の中は空っぽだった。なにも、考えない。綱吉のことさえこの瞬間には、獄寺の頭の中からきれいに飛んでしまっていた。
二曲目が終わると、三曲目、三曲目が終わると四曲目……五曲目を弾き終えた獄寺はようやく手を止めて、大きく息を吸った。
気持ちが高揚しているのは、いつものことだ。
気持ちが解れたところで獄寺は、ピアノの蓋を閉めた。
今夜はもう、これで終わりだ。
眠る場所を探して、隣の部屋へとフラフラと移動する。
隣の部屋は書斎だった。その隣は、ゲストルームらしい。ドアを開け、中に入ると少し埃っぽいにおいがしていた。
それでも構わないと、獄寺はベッドカバーを引きはがし、ケットの中に潜り込む。
目を閉じると、パーティでの気疲れからだろうか、獄寺はすぐに眠ってしまっていた。
(2012.1.17)
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