股の間だけではない。手の中も熱かった。
いいや、そうではない。体中どこもかしこも熱くて、気持ち悪くて、たまらない。
息を吐き出すと、呼吸さえも熱くて、ねっとりとしていた。
呼吸をしようとすると、喉がぜいぜいと鳴った。急に息苦しさを覚えて、獄寺はぎょっとする。
はあぁ、となんとか息を吐き出した獄寺は、おもむろにベッドの上に起きあがった。途端にくらりと目眩がして、四つん這いになる。
おかしい。
体が熱くて苦しくて、なんだかいつもと違う。
獄寺はのろのろとベッドから降り立つと、バスルームへ向かった。足取りはフラフラとして、あまり体調がいいようにも思われない。
洗面台の鏡を覗き込むと、赤い顔をした男がじっとこちらを見ていた。髪はボサボサで、目は充血している。酷い様子だ。目が合ってようやく、鏡の中の男が自分だと気づいた。
「……風邪か?」
呟いた声は、いつの間にかガラガラに掠れている。夕べ、体を冷やしたからだろうか。
洗面台の上の戸棚を開けて、風邪薬の瓶に手を伸ばした。数錠、手のひらに取り出して、口の中へ放り込む。それから蛇口を捻って水と一緒に喉の奥へと流し込む。
こんなみっともない姿で食堂にいたのだろうか、自分は。
あの場に父親がいなくてよかったと思う。綱吉がいなかったのは、もっとよかった。こんなみっともない姿を綱吉に見られるだなんて、死んでもごめんだと獄寺は思う。
冷たい水で顔を洗った。何度も、なんども。洗面台に水が跳ねてビショビショになったが、それでも獄寺はしつこく顔を洗い続けた。あまり惨めたらしい姿をしていては、綱吉にかけなくていい心配をかけさせてしまうことになるかもしれない。
随分と長い時間、そうやって洗面所に獄寺はこもっていた。
怠い体のまま、その日は一日、ぼんやりとして過ごした。
綱吉とのことをゆっくり考えようと思うと、これだ。一向に集中して考えることができない。もしかしたら自分は、呪われているのだろうか? 綱吉とのことを考えさせないように、誰かが……いや、もしかしたら大いなる宇宙の意思がそうさせているのではないだろうか?
そんな突拍子もないことを考えてしまいそうになるほど、獄寺は切羽詰まっていた。
もう、自分の気持ちを自分自身でどうこうできないところまできていた。
自分がどうしたらいいのか、さっぱりわからない。自分の気持ちすらわからなくなって、今や獄寺はピリピリとして苛ついていることが自分でもよくわかった。
どうしたらいいのだろうか。
ベッドの上でゴロゴロとしながら、頭を抱える。
いつの間にか頭痛までしてきていた。こめかみがピリピリとして、時折、背筋にゾクリ、ゾクリ、と震えが走る。
もしかしたら、熱が出てきているのかもしれない。
体調管理のできていない今の自分が、とてつもなく間抜けに思える。
はあぁ、と溜息をつくと、喉がざらりとして咳が出た。
これは本格的に風邪をひいてしまったようだと慌ててケットを頭の上までかぶったところで、すぐに体調がよくなるわけでもない。
結局、自室で一日を無駄に過ごしたことになる。
翌日も獄寺はベッドの中でだらだらと過ごすつもりだった。
治りきらない風邪のせいで体が怠く、なにをする気にもなれない。
父に命じられたパーティへ出席したことで、息子としての義務は果たした。後は好きにしていいはずだ。ここぞとばかりに獄寺は部屋でゴロゴロとしていた。
綱吉のことは、意識的に考えないようにした。
考えてもわからないなら、しばらく放置しておこうと決めたのだ。綱吉のことを考えると心が波立って、落ち着いて考えられない。それではいけないと獄寺は思う。こんな穏やかでない状態で綱吉とのことを考えていいわけがない。
もっと真摯に向き合う必要がある。
もっと冷静に。もっと真剣に。
できるだろうか? 自分はもっと真面目に綱吉とのことを考えなければならない。これまでのように、笹川京子に遠慮することなく──もちろん、彼女と綱吉との過去の関係も理解した上で──綱吉とは向き合わなければならないだろう。
果たしてそんなことが自分にできるだろうか?
綱吉に対して、対等な立場でもの言うことが自分に、できるだろうか?
ベッドの上でゴロンと寝返りを打つと獄寺は、はあぁ、と溜息をつく。
自分がしなければならないことは、たったひとつ。
できなかろうがなんだろうが、笹川京子を始めとする女性との関係をなにもかも理解した上で、綱吉との関係を始めなければならないということだ。
しかしそのたったひとつが、とてつもなく重荷に思えて、息苦しくてならない。
待ったはかけられない。綱吉の望むようにすることが、獄寺の望みでもある。
だから自分は、綱吉の気持ちに従い、彼との関係を始めることになるだろう。遅かれ早かれそうなってしまう自分が見えるようで、獄寺の気分はまたしても落ち込みかける。
気持ちを切り替えようと勢いよく息を吸い込むと、途端に咳き込んだ。ケホケホと咳をしながら、獄寺は子どもの頃のことを思い出す。
風邪をひくと、たいてい獄寺は一人でベッドの中に残された。大人たちはよそよそしく、獄寺の側にはあまり長居をしてくれなかった。姉のビアンキはちょくちょく見舞いと称してやってくるものの、それはそれでゆっくり体を休めることができないということに気づいてからは、あまり相手をしないようになっていった。
今もそうだ。手持ちの風邪薬を飲んだから大丈夫だと告げると、屋敷の者は朝から朝食を持ってきたきりで誰も様子を見に来ようとはしない。幼い頃から続いてきた親子の確執に絡んで、屋敷の中の者たちも獄寺の扱いに戸惑っていることははっきりと感じられる。
ビアンキだけが一人、いつものように我が道を行くで獄寺の様子を覗きに来たり、空になった朝食のトレーを下げてくれたりと甲斐甲斐しい。
とは言うものの、やはり実家の空気やビアンキが苦手でならない獄寺だった。
はあ、と溜息をつくとベッドの中をゴロンと転がり、目を閉じる。
指の腹で唇に触れると、不意に綱吉のにおいを思い出してしまった。
これまでずっと密かに好きだったからだろうか、折に触れ、彼の汗のにおいや体臭を思い出すことがあった。口に出して言いさえしなければ、綱吉に知られることはないだろう。だから、今ぐらいは許してくださいと、心の中で獄寺は呟く。
指は、唇に触れたままだ。
下唇の柔らかな部分を指の腹でじりじりとなぞると、気持ちいい。
はあっ、と息を吐き出して、尚も唇に触れる。
目を閉じているからだろうか、指の感触を綱吉に見立てると、彼に触られているような気になってくる。
なんて心地好いのだろう。これが自分の指でなく、本物の綱吉の指だったなら……そうしたら自分は……と、そこまで考えて獄寺は、はっと指を自分の唇から引き離した。
目を開けて、あたりの様子をじっとうかがう。
息を殺して、人の気配を探ってみる。
今の自分がどんなに馬鹿なことをしていたか、はっきりと理解している。
こんな間の抜けた姿を誰かに見られたのではないかと恐る恐るあたりの様子をうかがい、ゆっくりと息を吐き出す。
誰も、いない。人の気配はどこにもなく、自分一人きりだということがわかると獄寺は、ベッドの中に潜り込んだ。
今度は、唇に触れることもせず、ただ目をきつく閉じただけだった。
それでも、思い出した綱吉のにおいは獄寺の鼻の中に残っているような感じがした。
綱吉のにおいに、守られていると思った。
あたたかくて、素朴で、どこかしら子どもぽくて……とてもじゃないが、マフィアのボスとは思えない穏やかな、人。
大好きな人だ。心の底では愛している。だけど本心を告げるだけの度胸が、今の獄寺にはない。
どうしてこんなに自分は臆病になってしまったのだろうか。
好きな人に好きと告げる、ただそれだけのこともできないだなんて、どうしてしまったのだろうか。
そんなことを考えているうちに、やはりまだ体調が不完全だったからだろうか、獄寺はまたしてもうとうととしだした。
綱吉のにおいを思い出しながら獄寺は、ベッドのあたたかさに引き込まれていく──
(2012.1.26)
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