セカンド・キスでもいいから 9

  男の自分が、女の京子に敵うなどと端から思ってはいなかった。
  できることなら衝突を避けたいと、頭の隅で獄寺はそんなふうに思っていたほどだ。それも、綱吉のことを考えれば、のことだった。
  こんなふうに自分が真正面から京子と対峙しなければならないなんてことはまったく予想だにしておらず、だからだろうか、衝動的に自分の感情を剥き出しにしてしまった。
  失敗したと、獄寺は思う。
  自分の秘めた想いについてあんなふうに感情を表に出したのは、初めてのことだ。
  しかも相手は京子だ。恋敵だ。自分は、ライバルの前でみっともない姿を晒け出してしまったのだ。なんたる失態だろう。
  それでも彼女は、獄寺を蔑むようなことはしなかった。
  同じ男だというのに綱吉に色目を使ってと嫉妬心を露わにされたほうがずっとマシだったのではないだろうかと思わずにはいられないが、彼女がそんなことをするはずがないこともまた、獄寺にはわかっていた。
  京子の目に自分は、どんなふうに映っているのだろう。そしてこれまで、どんなふうに映っていたのだろう。
  学生時代のことを思い返してみても、獄寺にはあまりよくわからない。綱吉と一緒にいて楽しかったこと、嬉しかったことあたりははっきりと覚えているものの、それ以外のこととなるとあまりよく覚えていない。或いは、マイナスの感情をあらわすもので覚えていることといったら、負けて悔しかったことばかりだ。自分よりもはるか年下のランボに言い負かされてしまったことだとか、人生の大先輩にあたるシャマルに言い負かされてしまったことだとか、ムカついてつっかかっていったら山本にあっさりスルーされてしまったことだとか、エトセトラ、エトセトラ。
  もっとも、それはそれで楽しくもあったのだ。あの頃は綱吉が一緒だったから、楽しくないはずがなかった。獄寺の世界の中心は綱吉で、彼がいなければ獄寺の世界はおそらく成り立ちはしなかっただろう。
  それぐらい綱吉の存在は、獄寺の中では大きかった。
  今もそうだ。綱吉がいなければ、自分は立っていられない。
  この場所に立って、息をしているのがやっとのていだ。
  なんて無様な男なのだろう、自分は。
  洩らした溜息に、獄寺の唇は震えていた。



  帰国をズルズルと先延ばしにしていたが、もう先延ばしにする理由はなにもない。
  父も姉のビアンキも、獄寺がイタリアの実家に滞在していることを喜んではいた。とは言え、なにかと鋭いビアンキのことだ、獄寺がなかなか日本へ戻ろうとしないことの訳に気づいていたとしてもおかしくはない。それに、京子のことがある。彼女はビアンキを頼ってここへやってた。獄寺と京子との微妙な関係にもおそらく、姉は気づいているだろう。
  帰りたくない。
  綱吉のそばにいると自分は、このままどんどんおかしくなっていくような気がする。
  綱吉と京子の間の終わったのだか密かにまだ続いているのだかわらないような関係に気を取られ、周囲の噂話に振り回され、そして自分自身の気持ちに振り回されることに、獄寺は疲弊していた。
  助けてくれと呟いて、その相手が綱吉しかいないということに気づいて愕然とする。
  今、自分の中で助けを求める相手は綱吉しかいないのか。
  自分はまた、綱吉に頼ってしまうのか。
  綱吉を中心とした生活の中でなければ自分は、立っていることもできないのか。
  もう嫌だ。もう耐えられない。
  喘ぐように唇の隙間から声を絞り出すと獄寺は、おもむろに荷物をまとめ始めた。
  行き先は、誰にも言わない。綱吉の元へ戻るのではなく、綱吉から離れる。自分一人ででも立っていられるようにならなければ、綱吉の右腕としての自分の居場所など作ってはならない。このままでは自分は駄目になる。そして綱吉もまた、駄目になってしまうだろう。
  離れなければならないと獄寺は思った。
  綱吉のそばら離れて、一人きりにならなければ。
  ──どこへ、行こう?
  ボストンバッグに必要最低限の荷物だけを詰め込んで、獄寺は実家を後にした。
  誰にも行き先は告げていない。告げれば、きっと綱吉が後を追ってくるだろう。追ってこなくても、連絡を取ろうとしてくるはずだ。
  行かなければ、と獄寺は思う。
  誰も知らないところ、一人だけでなければ生きてはいけない場所へ、行くのだ。
  誰も力も借りず、一人でやっていこう。
  しばらくの冷却期間だ。
  綱吉に頼り切ってぐだぐだになってしまった自分を鍛え直すための時間を持たなくてはならない。
  自室のドアをパタンと閉めると獄寺は、足音を潜ませ屋敷を後にする。
  別に悪いことをしているわけではないのに、罪悪感が胸の中を苛んでいる。
  イタリアは駄目だ。日本も。いったいどこへ行けばいいだろう。
  どこへ行けば、一人になることができるだろう。



  情けないことに獄寺は、どこへも行くところがなかった。
  逃亡先が見つからず、あてもなくフラフラとあちこちを歩き回った挙げ句、結局のところ日本へ……綱吉のいる場所へ戻るしか行き場を見つけることができなかった。
  情けなくて、みっともなくて、どうしようもない愚か者だ。
  それでも、行くところがないのだからどうしようもない。
  仕方がないので綱吉とは顔を合わせずにすむようにした。完全に姿をくらましてしまうことはできなかったが、一時的に逃げ込むことのできる避難場所なら、獄寺にもいくつか伝手はあった。多分、綱吉にはすぐにバレてしまうだろうけれど、時間を稼ぐことができるのならそれで充分だった。
  要は、綱吉と顔を合わせ、言葉を交わす時間を少しだけ遅らせることができればいいのだから。
  心の準備が必要だった。獄寺自身の気持ちを落ち着けるためだ。綱吉への気持ちを抑え込まなければならないと獄寺は思っている。
  やはり男同士というのは、必要のない弊害がついて回るものだ。今ならまだ、傷は浅い。今なら綱吉のそばを離れても、獄寺はなんとかやっていけるだろう。
  今なら……。
  隠れ家のドアを開けると獄寺は、深い溜息をついた。
  ひとつだけの手荷物をベッドの足下に放り出すと獄寺は、床の上にあぐらをかいて座り込む。
  まずはフゥ太に連絡だ。あの年下の仲間は、なかなか聡いところがある。獄寺が姿をくらました後のことは彼がなんとかしてくれるだろう。
  それに、そんなに長期間に渡って綱吉と離れているつもりはなかった。
  どんなことがあろうとも、獄寺はボンゴレ十代目の右腕なのだ。そう易々と、自分の責務を放り出して好き勝手ばかりするわけにもいかないだろう。
  フゥ太への連絡をしなければ。そして獄寺自身の気持ちの整理も。
  ジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと、獄寺は口にくわえる。火も点けずにただ煙草をくわえているだけだが、それだけでも気持ちが落ち着いていくのが感じられる。
  考えるのをやめて、今日のところはさっさと眠ってしまえばいい。いや、それよりも久々の日本だから、風呂につかってのんびりするのもいいかもしれない。
  そんなことを考えながら獄寺は、暮れてきた部屋の中でぼんやりと座り続けるのだった。



(2012.5.8)

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