三カ所あるうちの階段のひとつを使って獄寺は七階へと移動してきた。足音を忍ばせ、一段、一段、息をひそめながら階段をおりていく。
七階に到達すると、階下のピリピリとした気配がなんとなく伝わってくる。
連中はなにをそんなに焦っているのだろうと、獄寺は首を傾げる。
今、優位に立っているのはファンゴーファミリーのほうだ。ボンゴレは、ボスである綱吉をファンゴー兄弟に囚われており、表立っては身動きが取れない状況にある。
それなのに、階下の苛立ちが床を通して獄寺に伝わってくるような感じがしている。
正面の入口に山本が奇襲をかけているのが原因ならいいのだが、と獄寺は眉間に皺を寄せる。
綱吉に会いたいと切望する、逸る心を押さえ込む。自分を戒めるために口の内側の肉を噛ると獄寺は、正面を睨みつける。
そろそろ、点検口に戻ったほうがいいのかもしれない。行動に制限が出るばかりでなく、時間もかかることだが、敵に見つからないように階下へ行こうとすると仕方のないことかもしれない。
かつて綱吉や仲間たちと一緒に未来の世界へ飛ばされた時のことをふと、獄寺は思い出す。あの時、メローネ基地へ攻撃をしかけるために自分たちはダクトの中を這って進んだ。あの時と今と、どう違うのだろう。過ぎてきた歳月や経験はあの時の未来とは異なるが、今またこうして、敵と戦うために狭くて暗くて気の遠くなるほど長いトンネルの中を這って進まなければならないのかと思うと、うんざりしてくる。
ともあれ、助けに来た自分が捕まってしまったのでは話にならない。小さな溜息をひとつつくと獄寺は、天井板をずらして点検口に潜り込む。
進まなければ。
綱吉のところまで、あともう少しだ。
片手にペンライトを握りしめ、じりじりと通気口の中を這い進む。
埃っぽい黴たにおいが不快だったが、そんなことはどうでもいいことだ。口元を真横にぎゅっと引き結んだまま、獄寺は通気口の中を進んでいく。
時折、催眠ガスを仕込んだ卵を投擲しながら獄寺は、目的地へと近づいていくのだった。
格好悪いなと獄寺は思う。
いくら綱吉を助け出すためとは言え、こんなふうに蜘蛛の巣と綿埃にまみれて通気口を這って進むのは、金輪際ご免被りたいものだ。
そんなことを考えながら、埃だらけの床を這う。
時折、フロアの灯りが差し込んでくる場所があると、通気口の外の様子を確かめてから、卵を投擲する。あと二つ投擲すれば、七階は完全に催眠ガスの支配下に置かれることになる。
獄寺が通気口を這い進もうとしたその時、人の気配がした。一人……いや、二人だろうか。
聞こえてくる足音に耳を澄ますと、敵は二人しかいないことがわかる。
「ファンゴーの兄貴はいったいどうしよう、ってんだろうな」
不満そうにだみ声の男が言い捨てる。通気口の壁の隙間から目を凝らして、獄寺は表の様子をうかがう。
「仕方ねえだろう。惚れた女を手に入れる、って盛り上がってんだから。だったら俺たちは、言われた通りにするしかない。あのボンゴレのボスとやらを軽く拷問にでもかければ、女の居場所なんてあっという間にわかるものさ」
二人の会話から、確かにここに綱吉がいることがはっきりとわかる。
だが、どこの階にいるとまでは二人組は口にしなかった。
「下の階がすげぇことになってるのを考えたら、俺たちはボンゴレの見張りでよかったな」
「ああ……本当にラッキーだったよ。入口で踏ん張ってるヤツらも可哀想だよな。いったい何人で一人を相手にしてるんだ、って、あんな物騒なものを持ち出されたんじゃ、こっちはやってらんねえやな」
このまま這いずって通気口の中で過ごすことは、獄寺にとっては辛酸を嘗めるほどのものだった。
一刻も早く、綱吉に会いたい。
会って、これまでのことを問いただしたいし、話したい。
二人の男たちは言葉を交わしながら、のんびりとした足取りで獄寺とは反対の方向へと行ってしまった。あちらの方面は既に、催眠ガスが充満している。放っておいても大丈夫だろう。
獄寺は通気口から身を乗り出し、つい今しがた男たちが通り過ぎて行った通路に降り立つ。
多少の危険を憂うよりも、綱吉を見つけだすことが先だ。気持ちが逸るのは、一分でも一秒でも早く、綱吉に会いたいからだ。
これまでのところ、綱吉の姿はどこにも見あたらなかった。
と、言うことは、だ。六階だろうか? エレベータは六階に止まってから四階へと下りていった。六階か、四階のどちらかだろうか。どちらにしても、もうすぐそこだ。
またひとつ卵を投擲すると獄寺は、足早にフロアを横切っていく。
六階はもうすぐ、階段を下りた目の前だ。
階段を駆け下りると、これまでいた上の階と比べて六階には人の気配があちこちにしていた。
ここまで来たらもう、躊躇っている暇はない。
階下では山本が頑張っている。
通気口の中を進むよりも獄寺は、フロアを直接移動することにした。今まで通気口をの中を這いずってきたのは、山本のための時間稼ぎだ。山本は、獄寺のために時間稼ぎを。お互い様だと獄寺は思う。
あらかじめフゥ太から渡されていたビルの見取り図を頭の中に思い出しながら獄寺は、慎重にフロアを駆け抜ける。
ここからは、いっそう時間がかかることになるだろう。敵が行き来することもあるこのフロアで、綱吉を探して回ろうと思えば、いい加減なことはできない。もっとも、時間がかかったとしても山本もそのあたりのことは理解してくれるだろう。
ドアの向こうの気配を探りながらじりじりと先へ、先へと獄寺は進む。
通路のずっと向こう、角を曲がろうとした時、こちらへと近づいてくる足音が聞こえてきた。咄嗟に獄寺は壁に身を張りつけ、息を殺す。
ドクン、ドクン、と心臓がうるさく騒いでいる。
背筋を、脂汗が伝い下りていく。気持ち悪い。
こちらへ来たら、その時はその時だ。握りしめた拳に力を込めて、唇を噛み締める。眉間に皺を寄せてじっと壁の向こうを睨みつけていると、寸前で足音が止まった。
金属音がしたかと思うとガチャ、と鍵の開く音がした。
「おい、交代だ」
部屋の中へと男が声をかける。
部屋の中にはいったい何人ぐらいいるのだろうか。耳を澄ましてみたものの、さすがに部屋の中の様子まではうまく聞き取ることができない。くぐもった声が返ってくるばかりだ。仕方なく獄寺は、防毒マスクを外した。
じりじりと壁伝いに部屋に近づき、耳をぴたりと壁につける。
その時、部屋の中からよく通る声が聞こえてきた。
「……こんなことをしたって、長くは続かないぞ」
綱吉の声だった。
ああ……と、獄寺は低く呻いた。こんなところに囚われていたのだ、綱吉は。
「長く続くかないかどうかは、俺たちには関係ない」
男の声が聞こえる。
余計なことを言って、敵を刺激しないでくれと獄寺は心の中で願った。ヤツらは綱吉を拷問にかけることも厭わないかもしれない。先ほどの会話からすると、そうなることを愉しみにしているような気がしてならない。
「それより、移動させるぞ」
ヘラヘラと笑う声は、別の男のものだ。早くしないと、綱吉に危害が及ぶかもしれない。そう思った瞬間、考える間もなく獄寺は、隠れていた場所を離れて部屋の中に飛び込んでいった。
「十代目!」
半開きだったドアを蹴破り、部屋の中へ転がり込む。それと同時に、気づかれないように手にした卵を部屋の隅へとそっと転がす。
綱吉がいた。部屋の真ん中で、ロープで椅子に縛りつけられた格好の綱吉は、あまりにも惨めすぎた。ボンゴレの十代目が、なんたる姿だ。
三歩で入口近くにいた男に体当たりを食らわせた獄寺は、綱吉の隣に立っている男が反撃をするよりも早く防弾チョッキの下に隠した銃を構える。
男が綱吉を撃つのが早いか、それとも獄寺が男を撃つのが早いか……。この距離なら当然、男が綱吉を撃つほうが早いに決まっている。
「……獄寺君!」
綱吉の声が、獄寺の耳に遠く聞こえる。
目の前の事実に集中するあまり、綱吉の声を意識的に聞かないようにしているのかもしれない。聞いてしまえば、気持ちが揺らぎそうになる。正しい判断ができなくなってしまいそうだ。
「残念だが、その銃は捨ててもらおうか」
男が告げる。
獄寺は唇を噛み締め、じっと男を睨みつける。
綱吉をこの部屋に監禁しておけば、ファンゴーファミリーは心おきなく山本と戦うことができるはずだ。それをわざわざ、この混乱の最中に綱吉を移動させようするのは、どうしてだろう。山本の勢いに、ファンゴーファミリーの連中が押されているということだ。
ここで獄寺が対応を誤るわけにはいかない。
息を飲み、獄寺は深く静かに息を吐き出した。
時間を稼がなければならない。
山本が下にいる連中を片づけ、ここまで上がってくるまで、時間を稼がなければ。卵に仕込んだ催眠ガスの効果があらわれるまで、時間を稼がなければ。
しかしどうやって時間を稼げばいいのだろうか。
「さあ、銃を捨てるんだ」
男が綱吉のこめかみに銃口をつきつける。
「獄寺君! 銃を捨てちゃダメだ!」
綱吉が叫ぶ。
だが、獄寺が銃を手放さない限り、銃口は綱吉の頭を狙ったままだ。
「捨てるんだ」
もう一度、男が告げる。
獄寺は隙のない様子であたりに視線を馳せながら、ゆっくりと銃を構えた腕を下ろしていく。
「獄寺君、ダメだ……!」
綱吉の声は聞こえていたが、今はこれしか時間を稼ぐことができない。獄寺は焦れるほどゆっくりと時間をかけて、銃を下げていく。片手を銃から放すと、床に片膝をついた。
自分の体からできるだけ遠くに腕を伸ばして、銃を床に置く。それからまた時間をかけて立ち上がり、綱吉のそばに立つ男を睨みつける。
「これでいいか?」
尋ねながら獄寺は目の端で、卵がガスを噴霧し始めたことを確認する。綱吉へと視線を向けると、彼も獄寺の動きに気づいたのか、気づかれないように微かな動きで頷きかけてくる。
誰が真っ先に倒れるだろうかと獄寺は思った。先に倒れたほうが、負けだ。自分は最後まで倒れるわけにはいかない。なにがあっても絶対に。でなければ、なんのために綱吉を助けに来たのかわからなくなってしまう。
「さて、それじゃあ…──」
言いかけた男が、ふらりとよろめいた。催眠ガスが効いてきたらしい。
先に倒した男のほうは、しばらく呻いていたものの、いつの間にか意識を失ってしまっていた。これもガスの効果だろう。
とは言え、あまり楽観的には考えられない。ここで堪えなければ、獄寺も綱吉も命が危ないかもれしないのだ。
銃に飛びつこうと体の筋肉を緊張させた獄寺だったが、それよりも早く綱吉が動いていた。
どうやって解いたのか、椅子に縛られていたロープが千切れて足下にはらりと落ちるやいなや、綱吉はすぐそばに立っていた男に体当たりを食らわせる。
「悪いけど、迎えが来たから帰らせてもらうよ」
そう言うと綱吉は、獄寺の腕を掴んで駆け出していた。
(2012.8.13)
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