セカンド・キスでもいいから 22

  了平の運転する車が去っていくのを見送った二人はしぱらく、呆然とホテルの前で立ち尽くしていた。
  早朝の時間帯にホテルの前まで連れて来て放り出していくなんて、本当にあの芝生頭はどうかしている。空はまだ薄暗く、星がちかちかと瞬いている時刻だ。たとえアーリーチェックインが可能だとしても、ホテル業の盛んな地域ならともかく、並盛のビジネスホテルではせいぜいいいところ午前七時か八時か、そのあたりの時間からしかチェックインは受け付けてくれない。そんなことは、フゥ太ならしっかり押さえているはずだ。もっとも別料金を支払えばこの時間でも受け付けてもらえるかもしれなかったが、今はそれよりも自分の部屋に戻りたい気分のほうが勝っていた。なによりも、この格好でホテルに入りたくないというのが獄寺の正直な気持ちだった。
「予約入れてるって……言ってたよね、確か」
  困ったように綱吉が呟く。
「……ですね」
  獄寺も頷く。
「明後日の朝って言っていたから、二日間の休暇だよね」
  恐る恐る綱吉が言うのに、獄寺は押し殺した声で「そうですね」と頷いた。
  まったくもって、信じられない。
  作戦は深夜を過ぎた頃に開始された。それから廃墟となった建物の中を行ったり来たりして、綱吉を助け、ファンゴー兄弟と戦ったわけだが……そんなに長い時間が過ぎているわけでもない。そもそも、そんな長時間に渡って戦うだなんて、体力が保つわけがないし、この程度の抗争に何十時間もかけてはいられない。
  腕時計をチラリと見ると、午前四時には少し早い時間だった。
「十代目のポケットマネーでなんとかしてくれと言っていたような気がするんですが……」
  できることならボンゴレの屋敷に戻って、シャワーを浴びたいし、着替えもしたい。いろいろと考えたいこともあったし、まだしばらくは綱吉との距離は取ったままでいたいと思う獄寺だった。
「タクシー呼んできましょうか」
  探るように尋ねると、綱吉は「いや、ここでいいよ。とりあえず休ませてもらおう」と疲れたように言った。
  獄寺は、綱吉と二人でホテルの正面玄関へと近づいていった。



  仕事の関係で何度か利用したことがあるから、顔見知りのスタッフも何人かいるホテルだ。これまで気安く利用していただけあって、なんとなく入りづらい。
  それにしても十代目に断りもなく予約を入れてと憤りながらも獄寺は、フゥ太の気遣いがありがたくもあった。誰にも邪魔されずに綱吉と二人きりの時間を過ごすことができるのだと思うと、それだけで嬉しくてならない。
  少し前から胸がキリキリと痛むような感じがしているのは、これは恋の痛みだろうか? せっかく綱吉と二人きりになることができるというのに……いや、だからこそ、だろうか。胸がキリキリと痛むほど、自分の気持ちは高揚しているのだろうか。
  二人がロビーに足を踏み入れるやいなや、顔見知りのフロントマンが近づいてくる。
「沢田様、獄寺様、お待ちしておりました。こちらのスタッフがお部屋までご案内します」
  あらかじめ連絡が届いていたのは事実らしい。
  すぐ近くにいたスタッフは綱吉と獄寺の二人に向かって軽く会釈をすると、エレベータのある場所まで案内する。
「こんな時間まで打ち合わせだなんて、大変ですね」
  同情するようなスタッフの静かな眼差しに、綱吉は曖昧に頷く。
  獄寺はいたたまれない思いをした。
  綱吉はスーツ姿だが、ファンゴー兄弟に拘束されていたため上着はヨレヨレになっており、目の下にはうっすらと隈が浮いている。自分はと言うと、ジャンプスーツに防弾チョッキの怪しい格好だ。言い訳するにも頭が回らず、獄寺はムッツリと押し黙ったままエレベータに乗り込む。夜が明けたら早々にチェックアウトして、屋敷に戻りたいのが正直なところだ。
  ホテルの中は静かだった。
  宿泊客の大半はまだ眠っており、廊下はシンと静まりかえっている。「こちらです」とスタッフが低く囁く声に頷いて、二人は廊下を進んだ。
  案内された部屋は上のほうの階にあるツインの部屋だった。
  部屋の入り口のところで綱吉は、後は自分たちでなんとかするからとスタッフを返してしまう。ホテル内の静けさに、これ以上はスタッフの手を煩わせたくないという思いがあったのかもしれない。
「とりあえず、シャワー使おう……」
  独り言なのか、そう呟くと綱吉は、先に使わせてもらうねと獄寺に一声かけてからバスルームへと消えていった。



  シャワーの音がドア越しに微かに聞こえてくる。
  獄寺は部屋の入り口側のベッドに腰を下ろして、ぼんやりとしていた。
  酷く疲れていた。胸の痛みはますます強くなってきている。綱吉と再会し、無事にファンゴー兄弟の元から助け出したことで、あれこれと必要以上に悩むようになったからだろうか。息をするのも苦しいぐらいだ。
  それに、と獄寺は思う。この時間にホテルの前に放り出されたのは、もしかしたらフゥ太なりの意趣返しかもしれない。綱吉がシャワーを浴びている隙にフゥ太に連絡をつけようとしたが、いくら携帯の番号をプッシュしても出てはくれなかった。了平はどこまで知っているのだろう。フゥ太の意趣返しに加担するほどあれこれ知っていたのだろうか、彼は。
  時間が時間だからあまりうるさくすることは憚られる。綱吉が腰にタオルを巻いただけの姿でバスルームから出てくるのを目にした獄寺は、ドキリとした。口の中にじわりとこみ上げた唾液をこっそりと嚥下する。このままじっとしていると思考がごちゃごちゃになってしまいそうで、獄寺は慌ててベッドから立ち上がった。
  交代でバスルームへと獄寺は足を向けた。脱衣スペースの床に着ていたものを脱ぎ散らかしたままバスルームのドアを開ける。軽くシャワーを浴びてから、少しぬるめの湯船につかった。シャワーは出したままだ。頭からシャワーの雫にしばらく打たれた。湯船につかって頭からシャワーの雫に打たれるのは心地良い。目を閉じて、しばらくじっとシャワーのぬくもりを感じた。
  あの廃屋ビルを後にして以来、胸の痛みは続いている。なんでこんなに痛いのだろうと思いながらも獄寺は、湯船から上がるとさっとバスタオルで水気を拭い、用意されてあったホテルのバスロープに袖を通した。
  シャワーを浴びてすっきりしたというのに、いまだに胸が痛い。バスローブの布地の心臓のあたりをぎゅっと鷲掴みにして獄寺は、怪訝そうな顔をする。脱衣スペースの洗面台の鏡の中に映るのは、濡れてぐしゃぐしゃのままの銀髪の、痩せた男が一人。顔色は青く、疲れたような顔をしている。
  はあ、と溜息をついてから獄寺は、バスルームを後にした。
  部屋に戻ると、薄暗かった。
  照明を落とし気味にした部屋の中で綱吉は、ベッドに腰をかけたままじっとしていた。疲れているのだろう。ぼんやりと宙を眺めているようだが、黒い壁や天井しか見えていないのではないだろうか。
「……十代目?」
  おそるおそる声をかけると、のろのろと綱吉は首を巡らせ、獄寺のほうへと視線を向けた。
「あ……お帰り」
  お互いに気まずいような感じがするのは、本題を避けているからだということはわかっていた。
  獄寺にしても、なんと切り出したらいいのかわからずに困惑しているのだ。綱吉に「好き」だと言われたその答えを、そろそろ告げる頃合いだということはわかっている。だが、なかなか踏ん切りがつかないのもまた事実だった。
  顔も覚えていないような相手とキスをしたことが獄寺の負い目となっている。どれだけ綱吉が「好き」だと言葉を紡いでくれたとしても獄寺は、たった一度の過ちに、綱吉に対する自分自身の造反を感じ取っている。だからその言葉に応えることができないのだ。もしかしたら綱吉にとって、それはたいしたことではないかもしれない。だがそれでも獄寺にとっては重大な過ちでもあるのだ。
  綱吉は綱吉でおそらく、京子とのことを負い目としているのだろう。最小限の人数で京子を守ろうとした綱吉はやはり、潔い。昔、自分たちが十四歳の子どもだった頃に未来の世界で垣間見た二十四歳の綱吉のように、潔い人だと獄寺は思う。気持ちにブレがないとでも言うのだろうか。ひとつのことを完遂するために彼が取る手段は、シンプルで迷いのないものだ。そこへ至るまでの綱吉はきっと、迷いに迷って決断したのだろうと思うが、結果だけを見ると真っ直ぐで、これぽっちも迷いを感じることがない。さすがだと獄寺は思う。ボンゴレ十代目だからこその決断に、自分がどうこう言うべきではないし、また言えるような立場でもない。
  ちらりと横目に綱吉を見ると、膝に置いた拳を開いたり閉じたりしていた。
  言いたいことがあるのだろうと思う。自分だって、綱吉に対して言いたいことは山とある。だが、言葉が出てこない。互いの負い目と、これまでの経緯とがあいまって、奇妙な緊張感が部屋には漂っている。
  どうしよう。どうしたらいいだろう。思いながら獄寺は、溜息を零した。胸が痛い。頭の中もごちゃごちゃで、どうにも言葉が出てこない。
  思うように言葉が出てこないことに焦れてゴロリとベッドに横になると、生乾きの髪が襟足にペタリと貼りついて不快だった。



(2012.10.27)

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