セカンド・キスでもいいから 7

  昼もだいぶん過ぎた頃になってようやく、獄寺の体から怠さが引いていった。それと共に熱っぽかった体も心持ち軽くなり、空腹を感じ始めるようにまでなってくる。
  そろそろ起き出しても大丈夫だろうと獄寺は、ベッドを抜け出した。
  屋敷の中は静かだった。
  皆、獄寺に気遣っているのだろうか、なるべく物音を立てないようにしているらしい。時折、階下で誰がヒソヒソと言葉を交わす声が聞こえてくるが、なにを喋っているのかまではわからない。
  水が飲みたいと獄寺は思った。
  喉が渇いていた。それから、腹も減っていた。
  のろのろとした足取りで獄寺は階下へとおりていく。厨房へ行けばなにか食べるものがあるだろう。そうしたら、この空腹感もどうにかなるだろう。
  階段を下りきったところで、父の部下と鉢合わせた。
「ぼっちゃん、もうお加減はよろしいんで?」
  いかにもといった厳つい外見の男が、声をかけてくる。
「ああ」
  腹が減ったからおりてきたと獄寺が言うと、男は、なにか軽めのものを用意させましょうと返してくる。部屋まで運ばせると言うので獄寺は、のろのろと思い足を引きずり、階段を戻り始める。
  おりてくるだけで体力を使い果たしてしまったかのようだ。
  手摺りを掴む手に力を入れ、腕の力で体を引き上げるようにして階段をあがっていく。
  自室のドアを開けるよりも早く、軽やかな足音が厨房のほうから聞こえてくる。たかが風邪と侮っていたが、ここまで体力が落ちることは滅多にない。
  はあぁ、と溜息をつくと獄寺は、部屋のドアを開けっ放しにしたまま、部屋に入った。
  ベッドに潜り込むとすぐに足音が部屋の前で止まった。
  姿は見えない。
  壁をコンコン、と叩くのに合わせて、ちらりと見えるトレーの端が軽く揺れている。
「ドアは開いてるだろう」
  いささかムッとして獄寺が声をかけると、トレーが動いた。



  危なげな動きでトレーを持っているのが、獄寺の目の端に映っていた。
  いったい誰だ。父の部下は精鋭揃いと聞いているが、たいしたこともないのだろうか。そう思って顔を入り口のほうへと向けると、見慣れた癖のある髪がひょこん、と戸口で揺れているではないか。
「じゅ……十代、目……?」
  掠れる声で獄寺が弱々しく呟くのに、目の前の人はニコリと笑みを向けてくる。
「体調を崩したって聞いて、心配で……獄寺君のお父さんにお願いして、連れてきてもらったんだ」
  ベッド近くのテーブルの上にトレーを置くと、綱吉は器を手に取った。お粥だ。卵とじゃこのお粥の上にはあんがかかっていて、いかにも美味そうなにおいがしている。
「オレが食べさせてあげるよ」
  そう言うと綱吉は、さっとベッドの端に腰をおろした。
  キシ、とスプリングが小さく軋み、獄寺は体を後方へと逸らし気味にする。
「はい、アーン」
  レンゲに掬った粥を、獄寺の口元へと持っていく綱吉の表情は優しい。
「熱くないと思うし、食べてみなよ? お腹、空いてるんだろ?」
  確かに、腹は減っている。しかしこんなふうに綱吉に食べさせてもらうのは、どうにも恥ずかしくてならない。
「や、あの……じっ、自分で食べられますから!」
  慌てて取り繕うと獄寺は、綱吉の手からさっと器とレンゲを取り上げ、パクパクとお粥を口にし始める。
「急に食べたら胃がビックリするから、少しずつ食べたほうがいいと思うよ、獄寺君」
  そう言いながら綱吉は、どこかしら楽しそうに獄寺を見つめている。
「あの……」
「なに?」
「じっと見られていると、食べづらいんスけど……」
  眉間に皺が寄ってくるのを獄寺は感じている。これが昔からの癖だということを、綱吉はとっくに知っている。
  今も、そうだ。クスクスと笑いながら綱吉は立ち上がって、窓際にあった椅子に腰をおろした。
「ここで待っててあげるから、早く食べちゃいなよ」
  窓の桟に肘を乗せると、頬杖をついた綱吉は表の景色に目を向ける。
  窓の外には木々は青々と繁っており、見下ろした中庭の花壇には庭師が丹誠込めて育てた花々が咲き誇っているはずだ。綺麗だとは思うが、獄寺はこの景色を好きになれそうにない。
  綱吉の視線がよそ見をしているうちにと獄寺は、急いで卵粥を食べてしまう。それから、別の器に盛ってあったリンゴを手に取る。赤い皮の部分を兎の耳に見立てて丁寧に切ってある。
「このリンゴ、どうしたんスか?」
  よもや姉のビアンキではないだろうと思うものの、獄寺は軽く首を傾げて綱吉に尋ねかける。
「ああ、それ……オレからの差し入れ。お粥だけだと愛想ないだろうと思って」
  聞けば、ここへ来てすぐに厨房でお粥とリンゴを用意してくれたらしい。いつの間に料理ができるようになっていたのだろうか。おそらく、京子とつき合っていた間に修得したのだろう。そう思うと獄寺の胸のあたりがモヤモヤとしてくる。胸焼けを起こした時のような、喉元になにかがつっかえているような、あまりいい感じではない。
  そうですかと呟いて、獄寺はリンゴを囓った。
  シャリ、と小気味のいい音がして、口の中に甘くてほんのちょっぴり酸っぱいリンゴの味が広がっていく。今はこの瑞々しささえもが、疎ましいような気がしてならなかった。



  お粥とリンゴを食べてしまうと獄寺は、またしても眠気に引きずられるようにしてウトウトとしかかる。
  まだ体が本調子ではないのだろう。
「食器はオレが厨房に返しておくから、しばらく寝たほうがいいよ、獄寺君は」
  言いながら綱吉は、獄寺が食べ終えた器をトレーに乗せ、部屋を出ていこうとする。
「十代目!」
  咄嗟に声をかけたものの、続きの言葉が出てこない。
「なに?」
  わずかに首を傾げて綱吉が尋ねる。
  獄寺は困ったように眉間に皺を寄せた。呼び止めたものの、なにを言えばいいのかがわからない。かと言ってこのまま、綱吉が帰ってしまうのもなんだか納得がいかないような気がする。
「あー……あのっ……」
  しばらく逡巡した後に獄寺は、パクパクとしていた口を閉じ、観念して息を吐き出した。
「いえ、なんでもないっス。お引き止めして申し訳ございませんでした」
  そんなことが言いたいのではないのにと、胸の内で獄寺は自分に毒づく。本当は、もう少しだけ一緒にいたいと思っていた。そう、正直に告げたかった。憮然としてベッドに潜り込んだ獄寺は、ふて腐れて頭からケットを被る。
  クスッ、と綱吉が笑ったような気配がした。
「……心配しなくてもすぐに戻ってくるって。寝つくまでそばにいてあげるから、安心してここで待ってて大丈夫だよ」
  軽い調子で綱吉はそう告げると、さっと部屋を出ていってしまう。
  パタン、と閉じたドアの音は驚く歩ど軽やかで、獄寺の心は綱吉の言葉に浮き足立ってしまいそうだった。
  厨房に食器を返したら、また戻ってきてくれると綱吉は言った。その言葉は嘘ではないだろう。そばについていてもらえるのだと思うと、ふて腐れてケットを被った自分の態度があまりにも子どもじみているように思えて、恥ずかしくなってくる。
  それでも、嬉しいことにかわりはない。
  ケットの端を握りしめた獄寺の口元が、わずかに緩んだ。



  綱吉の気配を近くに感じながら、獄寺は眠り続けた。
  あたたかいと思った。
  綱吉の気配は、あたたかくて、安心することができる。
  この人がそばにいてくれるのなら、自分はなにも心配することなく穏やかな気持ちでいられるだろう。
  もっとも、個人的な気がかりがなければという前提の元でだが。
  夢とうつつを行ったり来たりしながら獄寺は、夢を見ていた。
  綱吉の手が、自分の手をそっと握ってくれている夢だ。ベッドの脇に椅子を持ってきた綱吉は、獄寺の手を取ってきゅっと握りしめてくれた。手の甲に唇が触れるのを感じたが、あれは夢だったのだろうか。
  何度か声をかけられたような気もするが、はっきりとは覚えていない。
  とにかく眠くて眠くて仕方がなかった。
  すぐ近くで聞こえる綱吉の声が耳に心地よくて、彼の体温と気配があたたかくて、獄寺はそのうち、深い深い眠りに引き込まれていく。
  何事か綱吉が囁いていたようにも思えたが、ぼんやりとして紗がかかったようになっていた獄寺の頭には理解できなかった。
  好きだ──とかなんとか、言われたような気もするが、聞き間違いだったような気もする。
  次に獄寺が目を覚ました時には、綱吉の姿は消えていた。
  ああ、行ってしまったのだと獄寺は思った。
  寂しい。綱吉がいなくて残念だと思うと同時に、どうして部屋を出ていく時に起こしてくれなかったのだという憤りが込み上げてくる。
  くしゃり、と前髪を無造作に掻き上げると獄寺は、はあ、と溜息をついた。



(2012.2.25)

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