セカンド・キスでもいいから 23

  ゴロンと横になったままの姿勢で獄寺は、ベッドに腰をおろしたままじっと動かない綱吉を眺めている。
  好きだと言われたのは少し前のことだ。
  笹川京子との婚約を解消したすぐ後に綱吉から告白され……二人が別れてから「つき合ってほしい」と告白されるまでの期間があまりにも短かったため、獄寺は疑ってしまった。綱吉の気持ちが本当はどこにあったのかが知りたいと思ってしまった。
  それと同時に、自分が過去に綱吉ではない別の誰かとキスしたことを思い出し、嫌悪感に陥ってしまったのだ。相手の唇の感触は、疚しさと一緒に今も獄寺の唇に残っているような気がする。綱吉ではない誰かとキスをしてしまったことを獄寺は、今も後悔している。どうしてあの時、深く考えることもせずに顔も名前も覚えていないような相手とキスをしてしまったのだろうか、と。
「終わったんですかね」
  なんとはなしに呟くと、ベッドの端に腰を下ろしたままの綱吉の肩が、わずかに揺れるのが見えた。
「ああ……うん、そうかな」
  放心したように綱吉が返した。
  もう、悩まされなくてもいいのだと獄寺は思った。
  綱吉と京子が二人でいるところを目にしても、胸の奥底がジリジリと焦げつき、どす黒い気持ちがプスプスと燻りゆく様に嫌悪を覚える必要もなくなる。思い通りにならない自分の気持ちにやきもきすることもなくなるだろう。
  そのかわり、自分の気持ちを決めなくてはならないのだが。
  横になったままじっと綱吉を見つめていると、胸が痛んだ。まただ。圧迫されるような息苦しさとキリキリとした痛みと。どうしてこんなにも苦しいのだろう。どうしてこんなに痛いのだろう。
  息をするだけでキリキリと痛みがこみ上げてくる。
  まだ、自分の気持ちが定まっていないからだろうか。綱吉の告白に対する答えを出しきれていないから、こんなふうに躊躇ったり、後ろめたく思ったりしているのだろうか?
  本心では、綱吉のことが好きだ。
  だが、気持ちがまだついてきてくれない。
  綱吉のことを好きだと思う気持ちに嘘はない。それでは、いったいなにが足りないのだろう。自分に欠けているものは、いったいなんだろう。
「笹川とのこと、間違ってなかったと思います、俺は」
  これも、獄寺の本心だ。綱吉が考えて取った行動だ。誰にとってもできるだけ最善となる方法だったはずだ。
「……そうかな」
  ノロノロと小首を傾げる綱吉に、触れたいと獄寺は思う。
  今の綱吉は、疲れているだけのようにも見えるし、落ち込んでいるようにも見える。自分が、告白に対する返事をすることで綱吉の気持ちが少しでも浮上するのなら、今、返事をしたい。そうすることで少しでも綱吉の気持ちが穏やかになるのなら……。
「ダメだよ、獄寺君」
  不意に、鋭い声に思考を遮られた。
  ゆらりと綱吉の影が立ち上がる。暗がりの中で表情なんて見えやしないというのに、綱吉が怒っていることが獄寺にはわかった。
「今、慌てて返事をしなくてもいいよ。急いで答えを出すと、後悔するかもしれない。獄寺君にはオレのような間違いはしてほしくないから、無理に言ってもらわなくても……」
  チリ、と獄寺の胸の奥が痛む。
  綱吉に自分の胸の内を読まれてしまったことがひどく恥ずかしい。同情しているわけではないが、今ここで綱吉の告白に対する答えを出してしまったら、綱吉に失礼かもしれない。
  だけど、だからこそ今、言いたいのだ。
  自分の気持ちにけじめをつけて、綱吉に気持ちを伝える。
  後悔なら、とっくにしている。綱吉に気持ちを伝えられないままここまで来てしまったこともだし、綱吉に告白されて思い出した過去のキスもまたしかり、だ。
  後悔だらけのところにもうひとつ後悔が加わったとしても、別に恐くはない。
「今、返事をしたいんです」
  ムキになって言い返すと、綱吉のシルエットがはあぁ、と溜息をつくのが感じられた。



  綱吉に返事をするのならと、獄寺は起き上がって部屋の灯りをつけた。
  それからベッドの上に正座して、真っ直ぐに綱吉の顔を見つめる。
  ベッドの上で、バスローブ姿で正座をする姿はみっともない。だが、綱吉に気持ちを伝えるのにこれ以上あれこれと考えてはいられない。そんなことをしていたら、余計な思考に惑わされて、自分の本当の気持ちが見えなくなってしまいそうだった。
「後悔するかもしれないよ」
  優しい声で綱吉が言った。
「それでも今がいいんです。今じゃないと、ダメなんです」
  ただ好きだと伝えるだけのことなのに、どうしてこんなにも悩んで、苦しい想いをしなければならないのだろう。
  素直に気持ちを吐き出すことができた子どもの頃は、よかった。あの頃の自分ならもしかしたら、綱吉に気持ちを告げたとしても後悔なんてすることはなかったかもしれない。それに、あの頃ならまだ、顔も覚えていない誰かと唇を合わせてもいなかったはずだ。
「俺は……」
  声が、ひどく掠れている。
  恥ずかしいと思うよりも素早く、いつの間にか獄寺のそばに近づいていた綱吉に抱きしめられていた。ほんのりと湿った綱吉の体は、冷たかった。それでも風呂上がりのにおいがしていて、綱吉のにおいだと思った途端に獄寺の頬がカッと熱くなる。
「っ……」
  体が強張り、綱吉の腕の中から抜け出さなければと思うのに、腕が上がらない。
「──好きだ」
  耳元を掠めていく吐息と微かな声に、不自然なほど大きく肩が揺れる。
「ぁ……俺、は……」
  頭の中が真っ白で、言葉が出てこない。自分のほうから綱吉に好きだと告げたかったのに、先を越されてしまったような感じがする。
  ずるい、と獄寺は思った。綱吉は、ずるい。後悔するからやめておけと言っておきながら、自分の気持ちをこんなふうに押しつけてくる。獄寺の気持ちなどお構いなしなのか、それとも綱吉なりの優しさなのか、どちらだろう。
「ずっと好きだったんだ、獄寺君のことが」
  言いながら綱吉は、獄寺の耳たぶに唇を押し当てる。綱吉の声が、そして呼吸が、獄寺の耳たぶを通して体の中へと注ぎ込まれてくるような感じがする。
「オレ、結構しつこいよ? 嫉妬深いし、我が儘だし。それでもいいの?」
  返事を聞かせてほしいと言って迫っておいて、なにを今さらと獄寺は思う。あれだけしつこく言い寄っておいて、今になってこんなふうにして獄寺に逃げ道を差し出そうとするだなんて、やっぱりこの人はずるい人だと獄寺は唇を噛む。
「いいんですっ!」
  怒鳴るように返すと、また胸が痛んだ。
「それでも俺は、十代目がいいんです!」
  ずっと傍にいて、綱吉のことを見てきた。一緒に成長してきた。いいところも、悪いところも、全て知っている。
  だけどそれでも、この人がいい。目の前にいて、たった今、自分を抱きしめているこの男がいいのだと、獄寺は思う。
「……俺も、十代目のことが好きでした」
  震える声でどうにかそう告げると、頬に、キスをされた。
  かさついた綱吉の唇が頬に触れ、鼻先と鼻先が触れ合う。それだけで心臓がドキドキしだす。
「ずっと……オレのそばにいてほしいんだ、獄寺君には」
  どういう意味かわかる? 綱吉に尋ねられ、獄寺は小さく頷いた。



  ベッドの上に押し倒され、額と鼻先、それから左の目尻にキスを落とされた。
  唇に、触れてほしい。キスしてほしい。眼差しで訴えかけると綱吉は、指先でちょん、と獄寺の唇に触れてくる。
「唇……キス、してください、十代目」
  嫌がられたらどうしようと思うよりも先に、言葉が口をついて出ていた。
「いいの?」
  尋ねながらも綱吉の指は、思案するように獄寺の唇を弄っている。親指の腹が下唇を行ったり来たりしているのがもどかしくて、獄寺はパクリとその指を甘噛みした。
  獄寺に指を噛まれているというのに、綱吉はどことなく嬉しそうに笑った。
「誰かのために唇を守ってきたんじゃなかったの?」
  綱吉の顔が、近づいてくる。
「キスした人との思い出が、獄寺君の中にはまだ残っているんじゃないの?」
  目を覗き込まれると、体がゾクリとした。自分は興奮しているのだということに獄寺は、ふと気づいた。綱吉に唇を触られ、それだけで体が反応しかかっているのだ。
「思い出なんて……」
  顔も覚えていない誰かとのキスなんて、獄寺は思い出したくもなかった。誰だかわからない相手のために唇を守っていただなんて、どうして綱吉はそんなことを思うのだろう。あの時の唇の感触だけは獄寺の記憶に残ってしまっていたが、忘れられるものなら忘れてしまいたかった。なにもなかったことにして、綱吉と唇を合わせたいと思うのは許されないことなのだろうか?
「俺…には……十代目だけ、です」
  弱々しく告げると、綱吉の指が唇を外れ、頬のラインをなぞり、首筋へとおりていく。
「オレだけだ、って言って。オレのことしか見えてない、って」
  強い眼差しが、真っ直ぐに獄寺を見おろしていた。ほんのりとオレンジがかった榛色の瞳に、獄寺は口の中に溜まった唾を音を立てて飲み込んだ。
「十代目だけ、です……十代目のことしか考えられない。隠れ家に籠もっている間、寝ても覚めても、十代目のことが頭から離れませんでした。ずっと、十代目の言葉の意味を考えてました。なんで笹川と別れた後に、ハルじゃなくて俺だったんだろう、って……」
  ハルだけでなく、クロームもいた。他にも、女っ気ならあちこちにあったはずだ。ボンゴレ十代目ともなれば、女に苦労するはずがない。実際、同盟マフィアからも縁談の話はいくつか上がっていたほどなのだから。
「オレは、ずっと獄寺君がよかったんだ。獄寺君でなきゃ、キスしたり、抱きしめたりしたいだなんて思わなかったはずだよ」
「でも……笹川とキス、してましたよね、十代目」
  見ようと思ったわけではなかったが、何度か隠れ見たことがある。周囲の目も憚らず、くちづけを交わしていた二人を獄寺は覚えている。あれもカムフラージュの一環だったのだと言われれば、確かにそうなのだろうと思われたが、やはり納得はいかない。特にたった今、自分のことを好きだと告げたこの唇が、笹川京子とキスをしていたのだと思うと、獄寺の胸の内はグルグルと目まぐるしく悩み始める。
「あれは……」
  言いかけて綱吉は一瞬、口を噤んだ。
  ひと呼吸置いて、それらかふっと穏やかな笑みを浮かべる。
「お互い、先にキスした相手が本命じゃなかった、ってことで、手を打たない?」
  ファーストキスの相手は、お互いに別の相手だった。だから、なかったことにしようと綱吉は言うのだ。
「それって、なんかずるくないっスか?」
「いいんだよ、それで」
  眉をひそめて不服を訴えた獄寺に、綱吉はとっておきの笑みを浮かべて返したのだった。



(2012.11.17)

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