セカンド・キスでもいいから 17

  防弾チョッキを必要とするような事態が発生するとは思えなかったが、念のためと言われれば着るしかない。体にぴたりとフィットした黒のジャンプスーツの上に防弾チョッキを着用した獄寺は、どこかしら不満そうにしている。
  万が一のことを考えれば、防弾チョッキは必要だとフゥ太を始め、皆が言う。その必要性はわかっているが、ここまで周囲からうるさく言われたのは初めてのことだった。
  煙草がほしかった。苛立つ気持ちを鎮めるために。
  だが、これから行動を起こすという時に煙草を吸うのは躊躇われる。仕方がないので獄寺は、煙草を吸っているつもりで深呼吸を繰り返す。息を吐いて、吸って、体の筋肉から力を抜いて。
  目を開けると獄寺は、きびきびとした動きで車に乗り込む。
  時刻は、深夜を少し過ぎた頃だ。
  ファンゴー兄弟のアジト近くまでは、車で移動する。サポートに入るのは山本だ。今さら嫌だとごねたところで変更はきかない。仕方なく獄寺は、山本と二人して後部座席に乗り込む。
  運転はフゥ太がするらしい。
  獄寺がシートベルトを確かめる間もなく、フゥ太は車を発進させた。顔に似合わず、なかなか荒っぽい運転をする。乗り物酔いをおこしそうだと思いながらも獄寺は、窓の外を眺めて意識を逸らそうとする。山本はどうしているだろうかと窓越しに映る男の横顔を観察するが、フゥ太の運転の荒さなどどこ吹く風で、いつもとかわらずのほほんとしているから余計に腹立たしい。
  二人に気づかれないようにこっそりと溜息を吐き出すと獄寺は、目的地に到着するまでのわずかな時間、目を閉じていた。



  フゥ太の話によると、綱吉はファンゴー兄弟のアジトにたった一人で乗り込んでいったらしい。
  あり得ることだと獄寺は思う。
  綱吉の人となりを知れば知るほど、獄寺はよりいっそう強くそう思う。
  しかし本音を言うと、どうして一言も相談してくれなかったのだという憤りのほうが勝っていた。
  自分はずっと、綱吉の側にいた。出会ってから今日まで、ずっと。右腕として仕えてきた自分のこの十年間は、いったいなんだったのだろう。ファンゴー兄弟が笹川京子の前に姿を現すようになってから、いったい何年の月日があったと思っているのだ。その間に誰かに相談をしてくれていたら、こんなことにはならなかっただろうと思うと、悔しくてならない。
  一言も洩らさなかった綱吉に対して腹立たしく思うと同時に、気づかなかった自分に対して、言いようのない怒りがこみ上げてくる。
  そしてなによりも、自分が綱吉にとって信用するに足りる人間だと思ってもらえていなかたことが悲しくてならない。
  握りしめた拳に力を込めた獄寺は、てのひらに爪を食い込ませる。
  今はそれぐらいでしか、気を紛らわすことはできない。
  綱吉に会ったら、なんと言ってやろうか。
  いつも突拍子もないところで無茶をやらかす綱吉が頼もしく思えたものだ。時々、無茶をしすぎるきらいもあったが、そこは獄寺がうまく怒ったり褒めそやしたり宥めすかしたりして、なんとかしてきた。だが今回ばかりは、獄寺の堪忍袋の緒も切れそうだ。
  昨日、今日の話ではない。もう何年も前から続いていたことだと言うのに、そばにいた右腕の獄寺を蔑ろにしたのだ、綱吉は。
  それなのに、獄寺を騙したままで綱吉は、つき合ってほしいと言ってきたのだ。
  あの時、綱吉に言われるがままに答えを出してしまわないでよかったと獄寺は今さらながら思う。今となっては綱吉の言葉までもが、嘘で塗り固められたものでないかと疑いたくなる。
  だけど、どの瞬間の綱吉の言葉も、その時々で本心からの言葉なのだ。笹川京子と婚約をすると告げた時の綱吉も、獄寺のことが好きだと告げた綱吉も、すべてその言葉に嘘はない。ただ、真実を隠していただけのことだ。
  ノロノロと目を開けると獄寺は、はあぁ、と溜息をつく。
  今は、余計なことを考えている余裕などない。綱吉が待つ、ファンゴー兄弟のアジトへ潜入することが最優先事項だ。
「お、起きたのな、獄寺」
  隣のシートに座る山本が、のんびりとした口調で尋ねてくる。
「るせっ、この状況でグースカ寝てられるわけがないだろ。最初っから起きてたっつーの!」
  ギロリと睨みつけてやると、山本は「悪い、悪い」と笑って誤魔化す。
  獄寺の怒りが爆発しそうな寸前で、フゥ太の運転する車がビルの影に停車した。なかなかうまいタイミングだ。
「ハヤト兄、武兄も。遊んでる場合じゃないよ」
  いつになく真面目な顔をしてフゥ太が告げる。ここから先は、獄寺と山本の頑張りどころだ。
  運転席から顔を出したフゥ太は、二人に向かって声をかけた。
「それじゃあ、僕はこれでアジトに戻るよ。二人とも、くれぐれも気をつけて」
  それぐらい、わかってる──動き出した車に向かって獄寺は、小さく呟く。
  帰る時は、綱吉、獄寺、山本の三人一緒でなければならない。
  それがわかっていたから誰も、帰りのことは口に出さなかった。
  フゥ太の運転する車が走り去り、視界から消えてしまうのを待って二人は、行動を起こした。



  ファンゴー兄弟がアジトのひとつとしている廃屋ビルは、ビル街の一角にあった。
  深夜を過ぎているからだろうか、あたりに人影はなく、ファンゴー兄弟のアジトに隣接するビルの窓にも明かりは見えない。この時間になるとどこのビルも人のいる気配はなくなってしまうらしい。
  フゥ太の調査報告の通りだと、獄寺は満足そうに鼻を鳴らす。
  まずは雲雀が手配してくれたビルの非常階段を使って屋上に上がる。十二階建てのビルの屋上から、ちょうど隣の十階建ての廃屋ビルを見おろす形になる。物音を立てないように最上階に辿り着いたところで、今度は二手に分かれる。隣接するビルの入口側に山本、裏口側に獄寺が向かい、暗視スコープを使ってアジトの様子を探る。
「そっちはどうだ、獄寺。アイツら、ヤル気なさそうなのな」
  緊張感のかけらもない様子で、ヘッドセットから山本の声が聞こえてくる。
  手にしたスコープで獄寺もアジトの様子を直に確認する。
  山本が向かった入口側の警備は二人。一人は入口正面の階段に腰を下ろして、大口を開けてあくびをしている。もう一人もだらけた様子で煙草を吸っているらしい。確かにこれでは、今までに戦ってきたファミリーの者たちとは比べものにならないぐらいやる気も緊張感もないように思える。
  裏口は……とスコープを覗けば、スコープの向こうの二人の男は、缶コーヒーらしきものをちびちびと口にしながら、私語にふけっている。こちらも似たり寄ったりの状況だ。
「……お気楽な連中だな」
  だからと言って、アジトへの侵入が少しでも楽になるかと言うと、そうは簡単にはいかないだろう。聞くところによると、ファンゴー兄弟の部下には、乱暴な連中が多いそうだ。弟のほうが集めたようだが、おおかた自分と似たような頭の作りが単純で、力自慢の凶暴な連中ばかりなのだろう。
「ま、その分楽でいいか」
  呟き、獄寺は腕の時計に目を凝らす。
  戻ってきた山本と時刻を合わせると、二時きっかりに獄寺はビルに潜入、その十分後には山本が入口側へ攻撃をかけることを互いに確認し合う。
「じゃあ、お先」
  獄寺は、こちらの屋上からランチャーを使って命綱をかけると、ロープを伝ってファンゴー兄弟がアジトとしているビルへ飛び移った。
  侵入経路は屋上だが、敵との接触はできるだけ控えるように、可能であれば天井裏の点検口を進むようにとの指示が出ている。
  草壁が提供してくれた情報では、ビルの中には最低でも十人はいるだろうとのことだった。昼間、偵察に部下を向かわせたところ、何人もの屈強な体格の男たちがこそこそとビルを出入りしている姿が見られたらしい。内部に何人いるか正確な数がわからない以上、うかつに飛び込んでいくこともできないだろう。
  まあ、いいさと獄寺は思う。
  今から催眠ガスを点検口の隙間から下の部屋へと向けて流すから、敵が何人いようと関係ない。ただし即効性がある分、効果は微弱なものになっているらしい。しかし獄寺にはそれで充分だった。
  屋上のドアをこじ開け、獄寺は建物の中に入った。すぐ下の階に人の気配は感じられなかった。だが、その下、さらにその下はどうだろう。
  防毒マスクをしっかりと装着すると獄寺は、天井板をそっと押してみた。動く。廃屋ビルとなるずっと以前から、誰もメンテナンスをしてこなかったのだろう。おかげで天井板は難なく外れ、獄寺は懸垂をするときの要領で点検口へと身を滑り込ませることができた。
  狭かった。ペンライトを片手に持ち、目の前を照らすわずかな光をよりどころに、少しずつ天井裏を這って進む。催眠ガスを仕込んだ卵形のカプセルが防弾チョッキの内ポケットに入っていることを確かめ、少しずつ前進していく。
  一歩ずつ、綱吉に近づいている。
  もうすぐ会えるのだと思うと、わけもなく獄寺は緊張してしまう。任務の最中だというのに、これではいけない。
  表では、山本が善戦してくれていることだろう。気に食わない相手ではあるが、あの男がなかなかの剣の使い手であることを獄寺は知っている。安心して背中を預けることのできる一人でもある。
  ノロノロとした動きで獄寺は天井裏を進んでいく。
  最初の催眠ガスを投擲したのは、獄寺が天井裏に侵入してから十数分が経過した頃だった。
  十階の天井裏を這い回り、階段の上がり口付近にガスが流れるように、卵を投擲してやる。次々とガスを噴霧させながら獄寺は、エレベータに辿り着いた。
  エレベータは動いていた。見ていると、一階、二階、三階、四階を飛ばして五階と上がってくる。だが、上昇は六階までだった。止まったと思うとまた、下りていく。四階で止まって、それきり動く様子はない。
「チッ……点検口を這い回る必要はなかったんじゃねーか?」
  なにもわざわざ暗くて狭くて埃っぽいところを這って進む必要はなかったということだ。
  眉間に刻んだ皺を深くして、獄寺は残った階段から階下へと降りていく。下りながら卵をまた、投擲する。コロコロと転がっていき、動きが止まると同時に催眠ガスを噴霧し始める。それを見届けてから獄寺は、新たなフロアに卵を投擲して回る。
  そうやって七階まで下りた。
  あと少しだと思うと、知らず知らずのうちに手のひらが汗ばんでくる。



(2012.8.7)

                           10   11   12   13   14   15   16   17   18   19   20   21   22   23

BACK