ドアが閉まった後の部屋は、いっそう重苦しい雰囲気が漂っていた。
ここにいたくない。話を聞きたくない。そう思うものの獄寺は、知りたくもある。
フゥ太がこれから話してくれるだろう内容がいったいどんなものなのか、なんとなくだが想像することができるような気がしないでもない。
どうせ、あの女──綱吉の元・婚約者である京子──に関することだろう。思い起こせば、姉であるビアンキの態度はイタリアの実家にいた時から妙だった。あの頃から……いいや、そうではない。姉は、昔から京子やハル、それにクロームを妹のように可愛がっていた。だとすれば、イタリアにいた時だけでなく、いつも姉は、京子の行動を、そしてその行動の裏にある意味を、知っていたはずだ。
とは言っても、そう大したことではないはずだ。
姉や、京子の言動は滅多なことでは周囲に悪影響を与えることはないはずだ。だが、綱吉は違う。彼は、男だ。ボンゴレ十代目で、いざと言うときには思い切りよく自分の気持ちに従う。それがたとえ誰かのためであったとしても……。
ソファに腰を下ろした獄寺は、そばに立ちつくしたままのフゥ太をギロリと睨みつけた。 「おい。さっさと話せよ」
脅しつけるように腹の底から低い声を出すと、フゥ太も慌ててテーブルを挟んだ獄寺の向かいのソファに腰を下ろした。
「……じゃあ、早速だけど」
そう断ってからフゥ太は、テーブルの上に置いてあったノートパソコンの電源を入れる。 このパソコンが執務室の綱吉のデスクに置いてある、予備のパソコンだということはすぐに獄寺も気づいた。綱吉がいない時には、執務室の管理をフゥ太が一任されている。もしかしたらフゥ太は、綱吉以上にこの部屋のことに詳しいかもしれない。
どちらかが黙ると、沈黙がのしかかってくる。今はパソコンが起動する低く微かな音のおかげで、少しは気持ちが紛れるような気がする。
「……少し前のことなんだけど、同盟ファミリーの中から造反者が出たんだ」
躊躇うようにフゥ太は話し出す。口が重いのは、自分の口から話すことになってしまった現状に納得をしていないからだろうか。それとも……?
「ああ。隠れ家に来た時に、そんな話をしてたっけ」
あの話をフゥ太が持ち出した時には、既に綱吉は対応に当たっていたはずだ。と、すれば、その後にビアンキから電話があった、あの時に、何かが起こったのだろう。
何か──きっと、誰もが予想していなかった、予定外のことが起きてしまったのだ。
「うん。あの時にもう少し詳しく話をしていればよかったんだけど……」
フゥ太の言葉は、いつまでたっても歯切れが悪い。
いったい何を、彼は隠そうとしているのだろうか。
いつまでも隠しておくことなどできるはずがない。それぐらい、フゥ太にだってわかっているはずだ。それでも何かを隠そうとするフゥ太に、わけもなく苛立ちが募る。
「実は、ツナ兄から止められていたんだ。誰にも話すな、って。だから、ハヤト兄に話すのが今になってしまってるんだ」
誰にも話すな、か。獄寺は膝の上に置いた手をぐっと握りしめる。
「姉貴は……そのこと、知ってんのか?」
「ううん。ビアンキ姉は、京子姉としか話をしていないから……だから、ツナ兄から直接、聞いたわけじゃないと思うよ……多分」
フゥ太の言葉を聞きながら、獄寺の胃がシクシクと痛み出す。
この感覚は、覚えがある。
実際に自分が体験したわけではないが、なんとなく、覚えている。十年前の自分が進まなかったもうひとつの未来で、二十四歳の自分が覚えた種類の痛みと同じ痛み、同じ不安だ。
「十代目は……」
恐る恐る声を押し出すと、フゥ太はうつむき、唇を噛み締める。
ふーっ、と息を吐き出し、うつむいていた顔を上げ、フゥ太は真っ直ぐに獄寺の目を覗き込んだ。
「ツナ兄は今、その造反したファミリーに囚われているんだ」
大学に入った当初、獄寺は自分がすべきことは綱吉のボディガードとして常に彼のそばにいることだと思っていた。
中学、高校と共に学び、共に卒業し、同じ大学へと進学した。
綱吉と獄寺の距離は常に近すぎず、遠すぎず。互いの行動を束縛しない程度にボンゴレ十代目とその右腕として、また友人として、つき合ってきた。
その一方で綱吉は、京子と恋人としてのつき合いを進展させていた。
大学在学中に婚約をしたと告げられた時にはさすがに度肝を抜かれたが、それでも獄寺の綱吉に対する忠誠心が揺るぐことはなかった。
その頃にはもう、獄寺の気持ちは綱吉へと向かっていた。自分と同じ性の綱吉に対する不毛な想いを胸の奥底に秘めたまま、獄寺は友人の顔をして綱吉のそばに居続けることを選んだ。
裏を返せば、それほどまでに綱吉のことを想っていたのだ。いや、違う。あれは単なる自己満足だったのかもしれない。もしかしたら獄寺は、そんな自分に酔っていたのかもしれない。こそこそと綱吉を想うことで、女性である京子に花を持たしてやっているのだと、密かな後ろ暗い優越感を感じていたのかもしれない。
とにかく、綱吉は大学在学中に京子と婚約をした。当時は、そのまま学生結婚に踏み切るのではないかと山本や了平、それにディーノあたりがうるさくからかっていたものだが、不思議なことに綱吉は、そうはしなかった。
端から見ると仲睦まじいように見えた綱吉と京子だったが、実際はそうではなかったのだろうか?
しかし、仲良くしているように見せかけることで二人が得られるメリットというのはいったい何だったのだろうか。それとも、綱吉か京子、どちらか片方だけが得られるメリットだったと言うのだろうか。
ボンゴレの屋敷に戻ってきてすぐに顔を合わせたメンバーの中に京子がいたのは、そのあたりのことが原因ではないだろうかと獄寺は考える。
ビアンキが京子のそばにぴたりとくっついているのも、気にかかる。
これまでは表立って言えなかった話が、浮上してきているということだろう、きっと。
向かいのソファに腰を下ろしたフゥ太は、どう説明すればいいのか思案顔だ。それだけ、説明しにくい話でもあるのだろう。
だが、今の自分たちには情報を共有する必要がある。
造反したファミリーとやらに綱吉が囚われているというのなら、誰かが何らかの方法で助け出さなければならないだろう。
その大役を、獄寺に与えようと言うのだ、きっと。
そういう話なら悪くはないと獄寺は思う。
無事に助け出して、あわよくば綱吉に自らの秘めた想いを正直に告白するチャンスではないか。
顎の下に拳をあてると獄寺は、眉間に皺を寄せてフゥ太を見つめた。その目が、威嚇するかのように剣呑にすがめられていることに、獄寺自身は気づいていなかった。
「今はざっと説明するだけにしとくね、ハヤト兄」
そう断るとフゥ太は、ノートパソコンのキーをいくつか叩く。お目当てのデータが出てくるのを待って、獄寺のほうへとパソコンを向けた。
「これ……ここの同盟ファミリーの下のほうにあるファンゴーファミリーってのが、京子姉にずっとちょっかいをかけてきていたのは知ってる?」
初耳だった。片方の眉をピクリと跳ね上げ、獄寺はフゥ太の顔を見る。
「組織自体はそう大きくはないんだ。数年前に力自慢の兄弟が名乗りを上げた程度の小さなファミリーなんだけど……力にものを言わせては、地元の不良たちを使っていろいろと悪さをしているらしいよ」
そもそもファンゴーだなんて名前自体、記憶の隅に引っかかっている程度の小さなファミリーだ。いつだったか、同盟ファミリーとの会食の時に、確か兄弟揃って来ていたはずだ。がっしりとした体躯の、厳つい顔の男だった。兄弟共に体格はよかったが、顔は弟よりも兄のほうが男前だったような気がする。
「それがなんで、笹川のやつにちょっかい出してくんだ?」
あの男たちが、どう笹川京子に関わってくるのだろうか。獄寺はますます渋い表情をして、パソコンの画面をもういちど眺めた。
「……一目惚れなんだってさ」
はあぁ、と深い溜息と共に、フゥ太は告げる。
「大学に入ってすぐの頃に、たまたま京子姉を見かけたらしいよ。それ以来ずっと、兄弟二人共が京子姉にしつこくつきまとうようになったんだ」
「二人とも?」
「そう、二人とも」
獄寺が気づかなかったのは、綱吉に気持ちを持っていかれていたからだ。昔も、今も、綱吉以外は獄寺の目には入っていないに等しい。相手が綱吉にとって危険かそうでないかで判断をするから、笹川京子の周辺にまで目が回らなかったのだろう。
相談ぐらい、綱吉のほうからあってもよかったのにと獄寺は思う。
本当に自分は、信頼されているのだろうか? いざと言うときに頼りに思ってもらえないのであれば、自分が右腕でいる必要はどこにあるのだろう。そんなに自分は頼りなく見えるのだろうか?
「十代目と笹川の婚約ってのは、もしかして……」
パソコンはもういいと脇に押しやり、獄寺は顔を上げる。フゥ太は、どう返してくるだろうか。
「あれは、ファンゴー兄弟からの執拗な交際の申し込みに怯えた京子姉を守るために、ツナ兄が提案したことだって聞いたよ、僕は」
と、言うことは、偽りの婚約だったわけだ、あれは。獄寺は深く息を吐き出した。
急に目の奥がジクジクと痛んできて、なにも考えられなくなってしまった。
「少し前に二人が婚約を破棄したのは、ファンゴー兄弟がここしばらく、京子姉の前に姿を現さなくなってたからだよ。京子姉はツナ兄を婚約者という枷から解放してあげようとしたみたいだけど、どうやら裏目に出たみたいだね」
もっと慎重にしなければならなかったんだとフゥ太は、小さく呟く。
それは確かにそうかもしれない。だが、笹川京子はいつまでも綱吉を婚約者として側に縛りつけておくのが心苦しかったのではないだろうか。イタリアで彼女と少しだけ言葉を交わした獄寺には、そんなふうに思えてならない。
「じゃあ、十代目はその、ファンゴー兄弟のところに捕まっている、ってわけだな」
念を押すように獄寺は尋ねた。
申し訳なさそうに背を丸めて頷くフゥ太が悪いわけではない。
そばにいなかった、獄寺が悪い。
──これは完全に俺の失態だ。
(2012.6.25)
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