『三日月の夜 6』



  ゾロの背中の暖かさを感じながら、サンジは黙って傷の痛みを堪えていた。
  ゆっくりとした足取りで、ゾロは一歩一歩進んでいく。あまり揺らさないように気遣ってくれているのが、何とはなしにサンジにも感じ取れる。
  いい歳をした男が、背負われることになろうとは思いもしなかった。
  だいたい、この男と知り合ってからの自分は、いつもどこかしら気持ちが上の空でいけない。そういえば、見世の女の子たちに気をかける必要のない時には、ゾロのことばかり考えていた。いったい自分はどうしてしまったのだろうか。女性に夢中になるのならともかく、男に気を取られるとは。
  唇を横一文字に引き結ぶと、サンジは奥歯をぎりりと噛み締めた。
「痛むのか?」
  背中のサンジの様子に気付いたゾロが、のんびりとした声で尋ねかけてくる。
「いや、別に」
  精一杯の虚勢を張って、サンジは返した。
「そうか。もうしばらくだからな、我慢しろ」
  宥めるようなゾロの口調にも腹が立った。八つ当たりをしているわけでも、駄々をこねているわけでもないのだ。それなのにゾロは、サンジのことを軽くあしらおうとしている。
  馬鹿にされているような気がして、たまらない。
  絶対に仕返しをしてやるのだと、まるで子供のようにサンジは地団駄を踏みたい気分だった。



「ほら、ついたぞ」
  ゾロの声で目が覚めた。
  痛みの中でどうやらうとうととしていたらしい。サンジは目を開けると、ゆっくりとゾロの背中から滑り降りる。
  地面に足がついた途端、片側にぐらりと身体が傾いだ。
「おっと」
  咄嗟にゾロが腕をさしのべ、サンジの腰を抱えた。着物の上からでも、ゾロの腕に筋肉がついていることがはっきりとわかる。腕一本でサンジの身体を支えると、耳元でゾロは低く呟いた。
「しばらく、お前んところに泊めてもらえねぇか?」
  しばらく、と、ゾロは確かに言った。
  驚いてサンジが顔を上げると、ゾロの真摯な眼差しがじっとこちらを見つめていた。
「どうにもまずいことになっててな」
  と、ゾロは言葉を続ける。
「四、五日でいいんだ。しばらく成りをひそめてりゃ、あっちも諦めて引き上げていくだろうから」
  言い訳がましくゾロが言うのを、サンジはまじまじと凝視してしまった。この男でも、こんなに困った顔をすることがあるのだと不意に気付いた。さっきまであんなにこの男に対して腹を立てていたこともどこへやら、何がそんなにこの男を悩ませるのだろうかと興味津々、サンジは頷いた。
「俺の部屋でよけりゃ、何日でも泊まっていけばいい」
  そのかわり、見世の女の子たちには一歩たりとも近付かせねえ。胸の内でサンジはひっそりと呟いた。



  ゾロがサンジの部屋に転がり込んで、三日が過ぎた。
  最初にサンジがこっそりと決心したとおり、ゾロは見世の者たちとはこれまで一度として顔を合わせていない。サンジの部屋は見世のずっと奥、中庭を挟んだ離れにあった。もともと客室として作らせたものだったから、縁側の片隅には専用の厠と風呂とがあった。台所はさすがに母屋にしかなかったが、もともと見世の娘たちの世話をしていたサンジのこと。ゾロ一人分の食事が増えたからといって、特に困るようなこともなかった。
  最初の日はサンジも怪我に動転していたのか、ゾロに足の傷の手当てをしてもらった。太腿に触れるゾロの手はがさがさに荒れた手だったが、その手がそこかしこにあたるたびにサンジの股間は熱を帯び、甘く疼いた。二日目からサンジは自分で傷口に薬を塗り、包帯を巻くようになった。最初の日に気付かれなかったとはいえ、いつ、ゾロに股間の高ぶりを気付かれてしまうかわからない。ゾロのことは気になっていたが、それとこれとはまた別だった。二人分の布団を並べるために急に手狭に見えるようになった部屋の片隅で、サンジはじっと息をひそめている。
  今はまだ、ゾロに、この気持ちを知られたくなかった。
  隣の布団では何も知らずにゾロが眠っている。高鼾で眠る男の横顔にちらりと視線を馳せると、サンジの胸の中で何かが燻り出す。
  何も知らずに熟睡しているのだと思うと、何とお幸せな男なのだろうと思わずにはいられない。すぐ近く、手を伸ばせば届く距離のところでサンジが悶々としているのも知らずに眠っている、ゾロ。あの薄っぺらな唇に、口づけてみたいとサンジは思った。
  あの唇に、指で、舌で触れてみたい。ついばむように微かに触れるだけの口づけを交わして、下唇をゆっくりと舐めてみたい。歯列を割ってあたたかな咥内に舌を滑り込ませたら、いったいどんな味がするだろうか。
  味わいたい。
  触れたい。
  触れられたい。
  そして、何よりもこの身体の底からこみあげてくる疼きを、鎮めて欲しい。
  暗がりの中でサンジは溜息を吐いた。
  男の自分が、男のゾロに対してこんなことを思うとは。
  しかし、唇は酷く乾いていて、気持ち悪かった。
  ペロリと唇を舐めるとサンジは、仰向きに寝ていた身体を横向きにし、じっとゾロの横顔を見つめながら眠りに落ちた。



  それからさらに五日が過ぎた。
  ゾロはまだサンジの部屋に転がりこんだままだったし、サンジもそのことについては何も言わなかった。言う必要がなかったからだ。ほとぼりが冷めるまでは、いつまでもここにいてもらえばいい。そんなふうにサンジは思っていた。
  そんな中、見世で働く娘の一人から、猿屋の若い連中がこぞってゾロを捜しているという噂を聞いた。たまたま常連客の一人が猿屋の若い衆だったらしい。彼女は噂話程度に耳にした話を、挨拶がわりにサンジに話して聞かせてくれた。
  それにしてもおかしな話だった。
  猿屋の連中は、ゾロが若い娘と逃げたと言っていたようなのだが、あの男に限ってそれはないだろうとサンジは思った。女っ気のないあの男が、若い娘と駆け落ちなどといった馬鹿な真似をするはずがなかった。刀と一緒に心中するならともかく、あの男が女で身を滅ぼすことだけは、絶対にないはずだ。
  ……と、そこまで考えてからサンジは、ナミのことを思い出した。彼女は、ゾロとは同郷の出らしい。あまり故郷のことは話さないナミだったから、余計にサンジは気になった。かといって無理に故郷の話をナミから聞き出すのも失礼になるだろう。彼女のほうから話したくなるまでは、サンジがとやかく言うものでもないはずだ。
  そんなことをあれこれと考えてサンジは過ごした。
  その間ゾロは、食べて、寝て、ごろごろとして。ただひたすらに時間を無駄に費やした。ほとぼりが冷めるまでは徹底的に姿をくらましたままでいるつもりなのだろうが、それにしても上げ膳据え膳のこの態度にはさすがにサンジも怒りを通り越して呆れ果てるというものだ。
  ついでに実地見学も兼ねて見世のいろはを教えてやるかと、夜の帳が降りるのを待ってサンジは、少しだけゾロの欲望に灯がともるようにしてやった。



to be continued
(H16.12.5)



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