『三日月の夜 17』



  暗闇の中では物音が頼りになるということを、改めて思い知らされた。
  怪我人として保護されている今は、嗅覚ですら、信用できなくなっている。
  聴覚だけが、世界のすべてだ。
  遠くから聞こえてくる足音で、人の存在を知る。耳をそばだてると、音が聞こえてくる。離れの一室なのか、それともこの部屋自体がどこかに隔離されているのか、それすらゾロにはわからない。この部屋までは生活の音はほとんど届かず、意識が戻った時から時間の感覚も信用できない。
  この目に視力が戻ればと、何度願ったことか。
  交代でやってくる老女医と少年医師は、ゾロがいくら頼んでもちらとも光を見せてくれない。
  包帯を外せば失明すると言い渡されたゾロには、自分で包帯を解いてしまうだけの勇気もなかった。
  かと言って、じっと目が治るのを待ち続けるのは辛すぎて、耐えられない。
  せめて布団から起きあがることだけでも許してもらえたらと思うのだが、目が見えないくせにふらふらとあちらこちらをほっつき歩かれても困るのだと、猿屋の手代に厳しく注意されてしまった。
  しかし、布団の中でじっとしていると、ありもしないことを考えてしまう。
  もしかしたら、このまま自分の目は、見えなくなってしまうのではないか。もしかしたら猿屋は、自分を敵方に売り飛ばしたのではないか。いや、もしかすると、猿屋はすでに敵方に取り込まれてしまっているのではないだろうか。だから、この先、役に立ちそうにない自分をこうして飼い殺しにしてしまおうと思っているのではないか。
  もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら…──。
  不安になるようなことばかりが頭の中をぐるぐると回っている。
  こんなことならば、あいつの顔を最後にもう一度、しっかりと見ておけばよかったと、ゾロは思う。
  後悔することだらけの人生だから、最後にひとつぐらい増えたとしてもどうということはないだろうと、甘く見ていた。
  唇をギリリと噛み締め、布団の中で身じろぎ一つせずにじっとしていると、縁側のずっと向こうのほうから足音と床の軋みが聞こえてきた。
  特徴的な軽やかな足音は、少年医師の足音だ。今日は、ババアの日ではなかったのかと、ゾロはホッと溜息を吐いた。
  その後ろを歩く控えめな足音は、猿屋の手代だ。
  どうせ包帯をしていてわからないのだから、寝たふりをしてやろうか。
  唇をきゅっと一文字に引き結び、ゾロは少年医師の到着を待った。



  静かに障子が開いた。
  表の風がふわりと部屋の中に入り込んでくる。
  ふと、懐かしいにおいを感じてゾロは、身じろぎした。
「診察に来たよ」
  声変わりもしていないような幼い声が、縁側と思われる方向からかかる。
「いつになったら、この包帯はとれるんだ」
  うんざりした様子で、ゾロは尋ねた。
  ババアの時には、うまいこと言ってはぐらかされた。どうせ同じ事だろうと思っていると、真面目そうな声で少年は返してきた。
「今日の診察次第だけれど、約束の十日は明日だからな。今日、問題がなければ、明日の夜には包帯を外すことにしよう」
  慎重に言葉を継いで、少年は言った。
「そうか……明日か……」
  やっと包帯を外すことができるのだ。ホッとすると同時に、これからのことが頭の隅を掠めていく。
  自分はまだ、猿屋の用心棒を続けることが出来るのだろうか。このまま、ここにいてもいいのだろうか。そして何よりも不安はことは、包帯を外した自分の視力はどうなっているのだろうかということだ。
  見えるだろうか?
  朝焼けの空も、昼の青空も、鰯雲が群れとなって空を渡っていく様や、夕方の茜色に染まる空や、夜空の月と星々を、この目は、もう一度見ることができるのだろうか。
「さすがに肩の傷は、治りが早い」
  感心したように少年医師が呟く。
  常に危険と隣り合わせの生活をしているからだろうか、怪我に関してはゾロもそう、心配はしていなかった。眠れば、そこそこ傷も塞がった。もちろん、胸の傷のように深いものとなると少しばかり手をかけてやる必要はあったが、それ以外の怪我で大がかりな治療を必要としたことはこれまで一度としてなかった。
  肩の傷に再び包帯を巻き終えた少年医師は、今度は額から鼻のあたりを覆うようにして巻かれた目の包帯を慎重に外していく。
「今、見ることはできないのか?」
  ゾロが尋ねる。
「今は無理だ」
  幼い声が即答し、会話は途絶えた。
  しんと静まりかえった中で、包帯の擦れる音だけがゾロの耳に響く。
  目にあてがっていた布が取り除かれると、薬草のきついにおいがして、ゾロの目元に軟膏がうっすらと塗られた。
  眼球の周囲の筋肉を揉みほぐすように指が動いているのは、不快ではない。
「このあたりの皮膚がただれていたのは、知ってるか?」
  指を動かしながら少年は、ゾロの言葉を待った。
「そうなのか?」
  ゾロは返した。目の周囲が熱かったのは、覚えている。何の液体だかわからないが、何かを顔にかけられたのだということだけはわかった。それから、目も熱くなった。それとほぼ同時に、後頭部に衝撃を感じた。目が見えないことに気付いたのは、それからしばらくして意識を取り戻してからだ。
「目の中にまで薬品が入り込んでいなくてよかったな」
  少年がぽつりと言った。
  ゾロは、黙って頷いた。



  一通り診察を終えた少年医師は、そそくさと帰っていった。
  部屋を出る時に、後で柿の葉寿司を持ってこさせるからと告げた。
  柿の葉寿司かと、ゾロは思った。
  ある意味、嫌がらせにも近かった。
  目は見えない、部屋の中も外も、歩き回ることを禁じられ、じっと日がな一日布団に臥せっていることに飽き飽きしてしまい、ふと思いついたのだ。
  柿の葉寿司が食べたい、と。
  猿屋の若頭は気のいい男だ。すぐにあちこちから美味いと評判の柿の葉寿司を取り寄せてくれたが、ゾロが食べたいと思うものは一つとしてなかった。
  においだけで、これは違う、自分の求めているものではないと思った。
  だから、ゾロはまだ、柿の葉寿司を一口も口にしていない。
  声だけを聞いていると子どもとしか思われない少年医師が、わざわざゾロのために柿の葉寿司を持ってきたのだろう。きっと口にすることはないはずの柿の葉寿司に少しばかりの後ろめたさを感じながら、ゾロは溜息を吐いた。
  しばらくして、足音が聞こえてきた。
  縁側の向こうから聞こえてくる足音は、足音を立てないように歩いているものの、ペタペタと微かな音を立てている。これまでに聞いた覚えのない足音だ。
  起きあがり、布団の上で居住まいを正す。
  じっと息を殺していると、障子が開き、部屋の中に誰かが入ってきた。
「……柿の葉寿司をお持ちしました」
  押し殺した声が、ゾロのすぐ近くでした。
「どうぞ、召し上がってください」
  聞き慣れた声色が、耳元で反響している。
「お前……」
  言いかけて、ゾロは口をつぐんだ。
  気配だけで、部屋に入ってきたのが誰だかわかってしまった。感情を押し殺し、誰に言われたのか、他人行儀なふりをしている。
  ──サンジだ。
  柿の葉独特の香りがふんわりと鼻をくすぐっていく。
「どうぞ」
  と、穏やかな声がして、寿司が唇に微かに触れた。
  口を開けると、小振りの寿司が口の中に入ってきた。
  酢飯の味が、口の中に広がる。身の締まった鮭の味を口の中で楽しんでから、胃の中へと飲み下す。
「ああ……この味だ……」
  微かな溜息のような声で、ゾロは呟いた。
  ずっと、食べたいと思っていた。もし自分が死ぬのなら、目の前にいる男の手料理を口にしてから死にたいと思っていた。いったい誰が気を利かせてこの男をここへ寄越してくれたのだろうか。ここにいる間に会うことはないと思っていた相手が、こんなにも近くにいる。触れて、抱きしめたいと思うのはいけないことだろうか?



「鯖と鯛もございますよ、旦那」
  控えめな声に、ゾロは次の一口を待った。
  何も見えない世界で、米が唇に触れたのを感じる。
  齧り付くと、逃げていく男の指先が唇に触れた。
「うまいな」
  脂ののった鯖に、舌鼓を打つ。
  唇の端に残った米粒を指で取ろうとすると、その手を捕らえられた。
「どうした?」
  ゾロの手は、男の両手の中に大事そうに包み込まれた。手の甲に押し当てられたのは、唇だろう。そう思った途端、熱いものがポタリと手を濡らした。
  涙だと、すぐにゾロにはわかった。
  声も出さず、サンジが泣いている。
  これしきのことで泣くような男ではないだろうに、間違いなく、泣いている。
「よく……無事で……」
  震える声が、ようやくゾロの耳にも届いた。
  ああ、この声。サンジの声だ。ゾロは口元に淡い笑みを浮かべた。
  サンジの涙が収まるのを待って、ゾロは次の一口をねだった。
  久々に口にするサンジの料理は、自分が生きているのだと実感することができた。もしこれが夢だとしても、構わなかった。サンジの料理、体温、においを感じることができるのならば、たとえ夢でも構わないとゾロは思った。
  唇を開けると、今度は寿司と一緒に自分のものではない唇が被さってきた。
「ん……」
  抱きしめたいと思う感情を抑え込み、ゾロは唇の感触を味わう。
  口の中に酢飯と鯖の味が広がり、ついで舌が潜り込んでくる。飯を噛み下し、飲み込み、ざらついた舌を吸い上げた。
「んっ、ぅ……」
  肩に縋りついてくる手の体温に、自分は生きているのだという思いがようやくゾロの中にも染み渡っていく。
「ゾ、ロ…──」
  震える声で名前を呼ばれた。
  こんな時だというのに、ゾロの体は熱く高ぶっていた。



  寿司のことなど、すっかり頭の中から飛んでいた。
  サンジが訪ねてきたことで、ゾロの気持ちは一気に舞い上がってしまった。理性のたがは、サンジに縋りつかれたことで呆気なく外れてしまった。
  感情が求めるままに、サンジの体を強く抱きしめる。首筋に鼻先を埋め、心ゆくまでそのにおいを嗅いだ。ああ、サンジのにおいだ、サンジの体温だ、と、嬉しさのあまり、ゾロの体がカッと熱くなった。
  唇を合わせると、性急さのあまり、互いの歯がぶつかりあう。
「ゾロ……」
  掠れた涙声を耳にしただけで、ゾロの体の一点に熱が集まりだす。
「抱きてえ」
  耳元と思しきあたりに吐息ごと声を吹き込んでやると、サンジの体がビクンと跳ねた。
  堪えきれずゾロは、サンジの着物を肩口からずるりと引きずりおろした。裸の肩口を手のひらで大きく弧を描くようにしてなぞると、サンジの手が、ゾロの着物の襟元にかかる。
「体、大丈夫なのか?」
  躊躇いがちにサンジが尋ねる。
「ここに運び込まれてからは、散歩すらさせてもらえねえ」
  ニヤリと口元を引きつらせてゾロが笑うと、サンジはおずおずとゾロの着物の前を解いた。
「俺が、してやる」
  そう言うと、サンジは手のひらでそっとゾロの肌をなぞった。そのままサンジの手が、ゆっくりと下へとおりていく。腰布の上から触れたゾロの性器は、すでに硬く張り詰めていた。
  ゾロは、手探りでサンジの髪に触れた。男のくせにさらりとして柔らかいサンジの髪に指を絡めると、優しく弄ぶ。
  チュ、と音がして、腰布の上からサンジの唇が押し当てられる。
  カチカチに硬くなったゾロの性器が、サンジの口の中に飲み込まれていくのを期待して、大きくひくついた。



to be continued
(H20.10.19)



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