『三日月の夜 7』
部屋に、麝香の香を漂わせる。
見世に新顔の娘が入ってくるときには必ずサンジ自身の手で行う。ある意味、儀式のようなものだ。今日は娘ではなくゾロのためだったが、この香りが漂ってくる時には母屋の人間も気を利かせて離れには近寄らないようにしてくれた。ちょうどいい。サンジはさらに布団を敷いた枕元に、油壺を用意した。媚薬の入った油壺は、これもいつもなら未通娘に使うものだったが、今日のところはどうなるかわからない。どちらにしても、男同士なら必要だろう。サンジ自身、男の客を取ることはもう随分と長い間していなかった。見世を開いたばかりの頃ならともかく、今では男の客がサンジにつくことはなかったし、当時の客たちもサンジとの身体の繋がりを絶って久しい。あの頃のサンジの客は、ほとんどがつまらないことで命を落としてしまった。残った者はトントン拍子にというわけでもないだろうが、それぞれに見合った出世具合で忙しくし日々を過ごしているようだ。
ゾロが風呂へいっているほんのわずかな時間で、サンジは部屋を整えた。
それでは、と、自分も風呂の支度をする。
部屋を後にする瞬間、サンジはもう一度部屋の中をぐるりと見回した。
一組だけの布団の枕元に置かれた油壺。それから、盆の上の徳利と杯。ほの暗い灯り。鼻をつく麝香のにおい。どこかしら淫靡な部屋の様子にサンジはにやりと口元を歪めた。
今日こそあの男に存分に触れることができるのだと思うと、それだけで腹の底が熱くなってくる。
そそくさと風呂に向かうと、廊下の途中でゾロと鉢合わせした。
「お、珍しいな」
サンジの顔を見た途端、ゾロが言った。
ゾロが知っている普段のサンジは、娘たちの世話をし終える明け方近くに風呂に入る。それからほんの少しばかり睡眠をとって、また食事の用意にと起き出していく。日がな寝ずっぱりのゾロとは違い、随分と忙しい生活を送っているようだ。十日にも足りない期間を一緒に過ごしただけでしかないが、日暮れからそう時間の経っていない時刻にサンジが風呂に入るのを、ゾロは初めて見た。物珍しそうにサンジをじっと眺めてから、ゾロはふっ、と顔を逸らした。
すれ違う瞬間、思い出したようにサンジが告げた。
「話があるんだ。部屋で待ってろ」
自分が馬鹿なことをしているということにサンジは気付いていた。
客でもないのにゾロを誘った。
部屋に戻ったゾロが、おとなしくサンジを待っているかどうかは、一種の賭のようなものだった。待っていたら、先に進む。もしも部屋にいなければ、その時は潔くゾロのことを諦めよう。そう、サンジは決心していた。
自分と同じ男なのに、そこまで思わせる。そういう相手なのだろうか。男が女性に対して想う気持ちとはこれは別物だと、サンジの頭の隅は冷静に警告している。単なるお遊びで終わらせることになったら、辛いのはサンジのほうだ。それでもいいのかと何度も自問自答し、選んだ道だ。
それほどまでにサンジは、ゾロを欲していた。
あの男でなければ、身体はきっと、満たされない。
風呂に入るとサンジは、深い溜息を吐いた。
部屋に戻った瞬間が勝負だ。
それまでは冷静なままでいようと、湯船の中でサンジはゆっくりと目を閉じた。
風呂の中でサンジは、いつもより丁寧に身体を洗った。
新入りの娘を相手にする時とはまた違った気持ちで、サンジは身体を清める。熱めの湯にさっとつかり、あがった。脱衣所で身体をよく拭くと、神妙な手つきで膏薬を取り出した。中身は、あらかじめ媚薬を混ぜておいた油脂──部屋の枕元に用意したものと同じものだ。
少量を指先に取ると、自分で尻の奥へとなすりつける。薬が溶け出すまでまだ少し時間がかかる。部屋に戻ってことを始める頃には、ちょうどいい具合に濡れてきているはずだ。足りなければ枕元の油脂を使えばいいことだ。ゾロが部屋にいなかった時のことは考えないようにした。
もしも、いなければ。その時はその時だ。適当に誰か見繕って、何とかするしかないだろう。
もうひと掬い、サンジは油脂を尻の奥へとなすりつけた。生暖かい感触が不快感をもたらす。油脂を使う時はいつもそうだ。その後に何ともいえない快楽を運んできてくれるということはわかっているのだが、これまでに客を取る立場の人間として好きでもない男に抱かれてきた経緯から、どうしても身構えてしまう。
本心ではお前たちのような下衆になど抱かれてやるものかと決心しているサンジが、冷ややかな眼差しで見世に出入りする男たちを凝視していた。
いつもそうだった。力のない、若造の頃は。
だが、今は違う。
今のサンジには力があった。十九の若さで主人として見世を切り盛りしている。娘たちも使用人たちも、サンジにはよく仕えてくれている。感謝しても足りないほどだ。養い親は顔を合わせるとはサンジのことを半人前としてしか見てはくれないが、見世を任せてくれた時にはおそらく、認めてくれていたのではないだろうか。最近では、ゼフと顔を合わせる機会も少なくなった。今ではゼフは、見世を若い番頭二人に任せてほとんど奥座敷からは出てこないとも聞く。
自分で好き勝手できるということは、それに対する責任が常につきまとうということでもある。
これからサンジがしようとしていることは、見世の主人としてのサンジではなく、一個人としてサンジがすることなのだと自分自身に言い聞かせる。
低い声でゆっくりと十まで数えてから、サンジは脱衣所を後にした。
廊下の向こうのサンジの部屋から、こもったような麝香の香りが漂い出てきていた。
カラリと襖を開けると、布団の上にゾロが胡座をかいて座っていた。
「おい。これはいったいどういうことなんだ?」
襖が開いた途端、不機嫌そうにゾロが尋ねかける。
「ああ……」
どう返そうかと考えながら、サンジは襖をそっと引いた。密室になった途端、部屋の中の麝香のにおいがいっそうきつく鼻を刺激する。サンジはゾロのすぐ向かいに膝を立てて座った。
「包帯をかえたい」
ゾロの様子を窺いながら、サンジが静かに告げた。
「なら、かえろ。今さら何を言ってやがる」
ややぶっきらぼうにゾロは返した。サンジの傷が、すっかりとまではいかなくとも、随分とよくなっていることはゾロも気付いていた。そろそろ包帯を外してもいい頃かもしれない。眉間に皺を寄せたまま、ゾロはサンジを見つめている。
「アンタに……かえてもらいたい。傷が癒えたかどうか、見て欲しいんだ」
真っ向からゾロの視線を受け止めて、サンジは返した。
ピクリ、とゾロの片方の眉が跳ね上がり、まじまじとサンジを見つめ返す。
「ほら。見てくれよ……」
立て膝座りのサンジは、焦れったそうに膝を左右に開いた。包帯を巻いた太腿が露わになるように着物を大きくたぐり上げ、じっとゾロが触れてくれるのを待っている。
「──何を、考えてるんだ?」
と、ゾロ。
サンジはにやりと口の端を歪めると、小さな、しかしはっきりとした声で言った。
「多分、アンタが今、想像していることと同じことだ」
to be continued
(H16.12.7)
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