『三日月の夜 22』



  住み慣れた場所を捨てて、どこへ行けば幸せに暮らすことが出来るのだろう。
  ゾロと、二人で。
  見世も捨てる。家族のようにしていた店の娘たちとも別れ、もちろんジジィとも縁を切る。後腐れのないように。残していく人たちに迷惑がかからないように。好いた男と二人、手に手を取り合って住み慣れた場所を後にして、いったいどこへ行くと言うのだろう。
  縁側で胡座をかいたサンジは、小さく口元を歪めた。自分では笑っているつもりだったが、不自然に口元が歪んでいることに、これっぽっちも気付いていない。
「さて、どうしたものかな」
  呟いて、中庭で刀を振るう男に目を向ける。
  ゾロは鍛錬の最中だった。最初は竹刀を、そのうちいつも腰に下げている刀を手に、何やら複雑な刀技の鍛錬を始めてしまった。こうなるとこの男は、周囲の景色が見えなくなってしまう。一心不乱に刀を振るい、何かの気配を追い求めるように反射的に手足を、そして体を動かす。サンジが腕に止まった蚊を叩き落とす音さえも不快だと言わんばかりの鋭くぎらついた眼差しで睨み付けられるのだ。おいそれと動くことはできなかった。
  ひんやりとした空気が肌に心地よく、男の息が、白くけぶっている。そのうち体に噴き出した汗が乾いて、男の全身までもがもやって見えてくる。
  病み上がりの人間のくせに、こんなにもこの男は精力的に動いている。
  サンジを体の下に敷き込む時も、ゾロは容赦なくサンジを追い上げる。それがいいのだとサンジは胸の内で微かに笑う。見世の娘たちと同じように丁寧に壊れ物を撫でるように扱われるのはご免だったし、かといって隻腕の男のように非人間的な扱いを受けるのは癪に障る。この男ぐらいがちょうどいい。
  体の相性もだし、それ以外の性格的なことにしても、この男がいいとサンジは思う。
  一緒にいて、居心地がいいと感じるのだ。
  ずっと一緒にいたい、死ぬまで。そう、この先、二人の前には何が待ち受けているのかわからない。まだサンジの口からゾロにきちんと話してはいないが、隻腕の男に自分が執拗につけ狙われていることは、遅かれ早かれ話さなければならないことだろう。
  いつ、話そうか。
  チョッパーから聞いたとゾロは言っていたが、逆にチョッパーはどこまでゾロに、隻腕の男のことを話しているのだろうか。チョッパーが知らないこと、ナミやビビが知らないことを、サンジはずっと胸の内に抱え込んだままにしている。
  話さなければと思うものの、思えば思うほど、舌が顎の裏に堅くくっついてはがれなくなってしまうのだ。
  怯えているのだろうか、自分は。
  散々に陵辱され、嬲り者にされた記憶から、本能的に男に対する警戒心を強めてしまっているのかもしれない。警戒心が強いのはいいことだが、萎縮してしまっては元も子もない。ただ慎重であればいいだけのことだ。
  それからほんの少しだけ、狡賢さを隠し持っていればいい。



  狙われているのはサンジだけではなかった。
  ゾロもまた、何者かから命を狙われていた。それは、猿屋での出入りの一件からもわかることだろう。自分のことだと言うのに随分といい加減なことだと思い、すぐにサンジはその考えを訂正する。そうではない。そうではなくて、これまで関わってきた輩の中に、記憶に残るほどの手練れはいなかったということではないだろうか。
  それではいったい誰がとサンジは思う。ゾロはこれっぽっちも心当たりがないと言う。サンジ自身にしてもそうだ。心当たりがないなら逆に、心当たりがありすぎて、既にどの程度の数に膨れ上がっているかもわからなくなってしまっている。
  なんていい加減な奴なのだと思いながらも──当然ながらサンジは、自分のことは棚上げてしてしまっている──、そんなゾロのことをサンジは憎からず想っている。
「なあ。いっそ、駆け落ちでもするか?」
  二人、手に手を取って、橋の欄干から身を投げて…──少し前の縁日で旅芸人の一座が歌っていた歌を、サンジは口ずさむ。欄干から身投げした男女は、そのまま海へと流されていくのだ。あの世で幸せになることを夢見て、沈丁花の花を手に、川の流れに流されて、現世を去っていく。悲しい話だが、幸せな話だとサンジは思った。好いた相手と一緒に寄り添うことができるのだから。とは言え、サンジ自身はそうなりたいとは微塵も思わない。
  自分とゾロが何者かから命を狙われていると言うのであれば、相手を捜し出して徹底的に戦うまでだ。
  逃げるばかりでは性に合わないし、何よりもサンジ自身、生来は好戦的な雄だった。
  今までにやられた分は、やり返すまでだ。
  隻腕の男の前に膝を付いた屈辱は、一生忘れないだろう。あの男も一緒に、ぶちのめしてやるとサンジは思う。
  そのためには、何が必要だろう。
  いったん体勢を立て直すため、どこかに二人で隠れるのが一番だろう。自分たちよりも強い相手に向かっていくのだから、それなりの準備も必要だ。
  しっかりとした後ろ盾……は、猿屋に頼み込むとして、自分たち自身の体を整え、力を蓄えることも必要だ。
  今はまだ、動くことはできない。
  今はまだ、言ってみれば冬籠もりの最中だ。穴蔵の中で眠ることで体力を温存し、生き残るために日々を過ごすだけの熊と同じだ。
  そうして雪解けの春と共に、目を覚ます。
  凶悪なまでに力は漲り、相手に対する憎しみは絶頂にも届かんばかりとなっていることだろう。だが、それらの力を抑え込み、理性によって自分は、敵を手にかける。決して二度と、自分たちの前にその顔をさらすことのできないようにしてやるのだ。
  ペロリと唇を舐めるサンジの赤い舌が、艶めかしくも目の前のゾロを誘っている。
  一瞬、刀を振るっていたゾロの視線がサンジの体の上をさまよう。ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだものの、ゾロはすぐにまた目の前の鍛錬に意識を集中させる。
  はっ、はっ、と吐く息は白く、熱がこもっている。
  抱かれたいとサンジは思った。
  今すぐ、この男に抱かれたい。
  めちゃくちゃに体を揺さぶられて、激しく何度も突き上げられながら達したい。腹の底が熱くなって、体中が汗ばんで頭の中が真っ白になればいい。何も考えられないぐらいに酷く犯されて、声が枯れるまで喘がされたい。
  体の奥深いところに、男の精液を感じたい。最後の一滴まで絞り尽くすように尻の穴をきゅうきゅうと締め付けて、男を貪りたい。
  そうして、生きているということを実感したい。
  今、二人は生きていて、この世界で互いのことしか目に入らず、肌と肌とを重ね合わせて何者にも邪魔されることなく、互いに相手を貪り合っているのだと感じたかった。
  喰らい、食い尽くされ、幸せを感じたい。
  そう。生きていること、二人が共にいることを、確かめ合いたい。
  この先に待ち受けていることを考えると、無性に抱き合いたいと思ってしまう。
  気持ちが高ぶっている。神経がピリピリとして、興奮しているのだと気付くまでに、しばらくかかった。
  自分の状態に改めて気付いたサンジは、慌てて縁側を離れた。
  こんな時は、飯の用意だ。包丁を握って魚でも捌いていれば、気持ちは穏やかになってくるはずだ。
  好いた男に食べさせるため、自分たちが日々生きていくための食事の用意をさっさとしてしまうべきだ。
  自分という人間はどうしようもない人間だなと、粟を混ぜ込んだ麦飯を焚き付けながらサンジは苦笑した。
  男に陵辱された憤りよりも、好いた相手に対する性欲のほうが勝っているというのは、男として正常なことなのだろうか? 今度、あの少年医師と顔を合わせたら尋ねてみよう。チョッパーはどんな反応を示すだろうか。なかなか大人びたところのある少年だが、サンジが男と寝ていると知ったらあの初な少年は、いったいどう思うだろう。
  そう考えると、自然とサンジの口元は悪戯っぽく歪んでくるのだった。



to be continued
(H24.5.27)



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