『三日月の夜 21』



  サンジが寝込んでしまったのは、隻腕の男のせいだ。
  男はサンジに、猿屋へは近付くなと言った。二度と猿屋に関わるな、と。
  あの日、不意に訪れたナミのおかげでサンジは命拾いをした。下手をしたらあの男に殺されていたかもしれないと思うと、今でも背筋がゾッとなる。
  本気だったのだ、あの男の目は。怖ろしいまでに研ぎ澄まされた殺気が、サンジの全身を貫いた。ああ、自分はこの場で殺されるのだと思った瞬間、それならば目の前のこの男には最後まで抵抗してやろうという気になった。
  命は惜しいが、ここまでの命だと言われたなら、自分にでき得る限り抵抗してやろうと、そんな気持ちがサンジの中に芽生えたのだ。
  幸い、ナミが姿を見せたことでサンジは助かったのだが、それにしても危ないところだったと自分でも思わずにいられない。
  怪我自体はたいしたことはなかったが、全身が痣だらけになってしまった。それだけですんでよかったとチョッパーは何度も言っていた。サンジ自身も同じ気持ちだ。たとえ命が助かったとしても、もっと酷いことになっていたかもしれないのだ。痣だらけになるぐらい、どうということはない。
  一人暮らしは危ないからと言われたものの、行くあてもない。
  とは言え、今回のことでサンジは改めて身の危険を感じずにはいられなかった。
  しばらくの間、どこかに身を隠したほうがいいのではないかとチョッパーからは言われている。できることならサンジとしてもそうしたかった。しかしサンジが姿を隠してしまえば、見世の者たちに迷惑がかかるのではないだろうか。
  相手が堅気の者ではないことは最初から何とはなしに気付いていた。一度でも相手にしてしまった自分に非はある。それに何より、あの男から離れようと思えばできたというのに、そうしなかったサンジ自身、もう既に弱みを握られてしまっているようなものだ。
  おそらく、身を隠したとしてもすぐに見付かってしまうだろう。
  片腕であれだけの力のある男だ。これまでも数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきたに違いない。少しぐらい人より喧嘩が強い程度のサンジでは、とうてい敵うような相手ではないはずだ。
  それでは、どうしたらいいのだろうか?
  どうしたあの男から逃げることができるだろう?
  見世の者たちに迷惑をかけず、あの男から逃げ切る方法がどこにあるというのだろうか?
  しんと静まりかえった部屋で一人、サンジは色褪せた天井をじっと睨み付けながら考える。
  見世を守る、方法を──。



  サンジが布団の上に起きあがることができるようになるには、数日を要した。
  思っていた以上にあの男の力は強いらしい。手も足も出なかった自分とは、比べるまでもない。あの男にとってサンジを床に這いつくばらせることなど、赤子の手を捻るようなものなのだろう。
  布団の中でじっと休んでいる間は、ナミとチョッパーが交代でサンジの様子を見に来てくれた。
  離れに戻るようにチョッパーは何度も進言したが、サンジは首を縦には振らなかった。
  見世に戻れば安心することはできるだろうが、その分、娘たちに危険が及ぶかもしれない。娘たちだけではない。チョッパーやウソップ、それに身重のカヤに何かあったら、サンジはきっと、悔やんでも悔やみきれないだろう。
  だから一人のほうがいいのだと、サンジは告げた。
  チョッパーはそれでも諦めることなくサンジに見世に戻るように声をかけたが、聞く気はなかった。
  男が一度決めたことだ。そうあっさり翻すようなことをしたら、みっともなくて世間様に顔向けができねえやとサンジは笑った。
  夜になれば隻腕の男の影に怯えながら眠る日々が続いたある日、屋敷にゾロがやってきた。
  黙って引き戸を開けたゾロは、ふてぶてしくニヤリと笑って敷居を跨いだ。
  サンジの体から一瞬にして、緊張が解けていく。
  近付いてきた男の手がサンジの体を引き寄せ、髪をくしゃくしゃにした。
「なんて面ァしてんだ、あ?」
  耳元で男が喋る。唇が動くそのたびに、耳たぶに吐息がかかり、サンジは年甲斐もなくドギマギした。
  チョッパーから話を聞いて、猿屋を出たのだとゾロは告げた。
  サンジの様子が気になって、いてもたってもいられなかったのだ、と。
「安心しただろ?」
  尋ねられて咄嗟にムッとなったものの、安心したのは事実だった。
  安心したし、もう大丈夫だと思ったことも事実だ。しかしそれ以上にサンジは、ゾロがあの男と出会った時にどうするのかが気になった。隻腕の男と対峙するにしても、ゾロはまだ本調子ではない。目を覆っていた包帯が取れたとは言え、チョッパーからはまだまだ安静にしているようにと言い渡されているはずだ。そんな状態で隻腕の男と渡り合うことができるのだろうか。
「んな面、すんな」
  そう言うとゾロは、軽くサンジの肩を叩いた。



  屋敷での生活は、ゾロを迎えたことでやおら賑やかになった。
  いや、そうではない。自分がはしゃぎすぎているのだということに、サンジはふと気付いた。
  嬉しくてたまらなかった。
  ほんの短い期間、ゾロとは一緒に生活をしただけだ。サンジの部屋に居候をしていたゾロは、あの時とは少し違う。今のゾロは、この屋敷でサンジと共に暮らしながら、何かを待っているようだった。何かとは、あの男──隻腕の男に他ならない。
  何故、ゾロがあの男のことを気にかけるのだろうかとサンジは思う。
  あの男とゾロは、面識があるのだろうか? そもそもサンジは、ゾロのことをほとんど何も知らない。隻腕の男にしてもそうだ。ふらりとやってきてはサンジを陵辱していくだけのあの男と、ゾロと。どちらもたいしてかわらないということに、サンジは気付いてしまった。
  二人の男の違いと言えば、サンジが相手に対して好意を持っているか、そうでないかの違いだけだ。
  いったい何故、自分はこんな得体の知れない男たちと関わりを持つようになってしまったのだろう。
  何故、彼らはサンジに関わってくるのだろうか?
  何もわからないことだらけで、サンジの胸の中にもやもやとしたものが凝りとなって残っただけだった。
「なんでだろうな」
  呟いてサンジは、縁側で惰眠を貪る男をちらりと見遣った。
  眠っているか鍛錬をしているか食べているか酒を飲んでいるか。そうでなければサンジを体の下に敷き込んで好きなようにしている男は、今は夢の中だ。
  そもそも、どうして自分はこの男に惹かれたのだろうか。この男の何が、サンジを惹きつけたのだろうか。
  横臥して鼾をかいている男のこめかみにできた皺や、寄せられた眉間の形を見ていると、それだけでサンジの口元が緩んでくる。
  今はだらしなく眠るこの男が、夕べはサンジを散々いいようにしてよがらせた男と同じ男だとは、どうしても考えられない。
  しばらくじっと男の寝姿を眺めていたサンジだったが、そのうち土間のほうから聞こえてくる湯の沸く音に、追い立てられるようにしてその場を離れたのだった。



  隻腕の男の訪問を怖れていたサンジだったが、ゾロがやってきたことを知っているのか、男はなかなかやってこなかった。
  このまま隻腕の男の存在は消えていくのだろうか。ゾロがこの屋敷に居続ける限り、サンジはあの男の影に怯えることはないのだろうか。安心しても、いいのだろうか?
  穏やかな日々が続くと、そんなふうについ、自分に都合のいいように考えてしまう。
  もしかしたら、あの男とはもう二度と顔を合わすこともないのかもしれない。そんなふうに思い、油断してしまっていたらしい。
  あの男は確かにここしばらく、屋敷には顔を出さなかった。しかしだからといっていなくなったのかと言うと、そういうわけでもなかったらしい。ただ単に、ゾロと顔を合わせないように、サンジが一人になる機会を待っていたようだ。
  ふらりと買い出しに出かけたサンジの後を、あの男はいったいどのあたりからつけてきていたのだろうか。
  気付くと、屋敷までの寂しい一本道を男がつけてきていた。足早にサンジは歩くが、悠々と歩く男の歩幅はサンジのものよりも大きいのか、すぐに追いつかれてしまう。
  背後の男の吐息がはっきりと耳に感じられ、サンジは全身に鳥肌が立ちそうなほどの恐怖を感じた。
  もっと早く歩かなければ。
  もっと早く……もっと、もっと!
  歯を食いしばり、鼻息も荒く、サンジは歩き続けた。
  振り返ったら負けだ。
  駆け出したい気持ちをぐっと押し殺して、サンジは歩き続けた。衝動的に走り出したくなるのを堪えて、足早に歩いていく。規則正しい自分の足音に、サンジは神経を集中させた。
  しばらくして道のずっと向こうに見えてきた屋敷の影を目にしたところで、ほう、と安堵の吐息が洩れる。
  後からついてきていたはずの隻腕の男は、いつの間にか姿を消していた。



to be continued
(H23.1.20)



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