『三日月の夜 14』



  見世のすぐ裏手に、人目を避けるように建つ一軒家があった。
  サンジが見世を継いですぐの頃、しばらくの間ではあったけれど、この屋敷にゼフが控えていた。自分の後継者が何かしでかしたらすぐにでも飛び出していこうと待ち構えていたのだが、残念なことにゼフがいる間にその機会は一度として訪れることはなかった。
  荷物らしい荷物もないままにサンジは、かつてゼフが生活していた小さな屋敷に移り住んだ。これまでサンジが生活してきた離れと違い、屋敷は簡素な作りをしていた。布団と一人分の食器と、離れの部屋から持ってきた身の回りのものがわずかばかり。
  寂しくなったと誰かに言われれば、身の回りがすっきりしたと、サンジは笑って返していた。強がりではなく、本心からそう思っていた。
  見世の離れはすでに手を入れている。ウソップをはじめ、彼の大工仲間たちが協力して見世の中庭から奥は診療所を兼ねた少年医師の生活の場に作り替えた。
  カヤはというと、身体の具合と相談しながらチョッパーの手伝いをするようになっていた。チョッパーの助手として働いている時のカヤは、見世に出ている時よりも、何倍も美しく見える。もともとこういった看護の手伝いの好きな、心の優しい娘だった。ウソップと夫婦になった彼女は今、まさに幸せのまっただ中にいるのかもしれない。
  サンジの胸の底にはカヤを羨ましいと思う気持ちがあった。が、何に対しての羨望なのか、サンジ自身、よくわかっていなかった。
  慌ただしい毎日が戻ってくれば、それだけでサンジの個人的な気持ちは胸の隅に追いやられ、見世のため、娘たちのために身を粉にして働く日々が続いていく。ちっぽけなことなど気にしている余裕もないほど、忙しくなればいい。そうすれば、あの緑髪の男のことだって、思い出さずにすむだろう。そんなふうにサンジは考えていた。



  隠居屋敷での生活に馴染んできた頃に、その男は再びサンジの前に姿を現した。
  夕方から降り出した雨は、夜半には滝のように轟々と地面を叩きつけていた。
  最初、戸口を叩く音があまりにも小さすぎてわからなかった。風の音かと思い、危うく聞き過ごしてしまうところだったのをわざわざ出ていったのだ。
  引き戸を開けるとそこには、あの赤毛の男がずぶ濡れで立っていた。
  にやりと男が口元に笑みを浮かべた瞬間、サンジは蛇に睨まれた蛙のようにその場に凍り付いてしまった。
「そろそろ、俺のことが恋しくなってきていただろう」
  下卑た笑いを浮かべる男を睨み付けながらもサンジは、黙ってあとずさった。男は悠々とした態度で戸口を潜り、部屋に上がり込む。
「泥を……そこのたたきで……」
  ボソボソと言いながらサンジは、桶に水を汲んで戻った。手ぬぐいを濡らし、男の足についた泥を拭いていく。それから乾いた大判の手ぬぐいで、男の髪や体をぬぐってやった。
  男はじっと、サンジの様子を眺めていた。
「気に……ならねぇのか?」
  静かな声で、男が尋ねる。今夜の男は素面だからか、普通に話ができそうだ。
「……別に」
  かれこれひと月ほどになるだろうが、この男にされたことをサンジは覚えている。だからといって、この男が恐いというわけでもなかった。ああいった趣味の男なのだと思えば、自然と諦めもついた。
  ただ、触れられたくない。それだけのことなのだ。
「話を聞きたくはないか?」
  男が、言う。
  サンジが、喉から手が出るほど欲している話だ。
「……」
  目を伏せて、サンジは唇を噛み締める。
  どんなに些細な話であっても、あの緑髪の男の話ならば、聞き逃したくはなかった。たとえ、自らの体を目の前の男に差し出すことになろうとも、それさえも厭わない。彼……ゾロがどうしているのかを人づてになりとも耳にすることができるのならば、それで構わない。
  どうせ、これまでにも何人もの男がこの体の上を通り過ぎていっているのだ。今更一人ぐらい増えたところで、誰が気にするというのだろう。
「……教えてくださいよ、旦那。何でも……そう、何だってアンタの言うことなら聞きますよ、旦那」
  押し殺した声で、サンジは呟いた。
  その瞬間サンジは、心の奥底で、幸せそうなカヤのあの輝きに嫉妬していた。



  床に胡座をかいて座った男の上に、サンジは自ら腰を落としていく。
  片腕で不自由だからと男は、サンジに自分の上に乗ることを強要した。男にすべてを見られているのだという認識がサンジの中で羞恥心を呼び覚ましたが、すぐに快楽にとってかわられた。男との取引をする直前に体の奥に塗り込めた媚薬入りの軟膏が、少しずつサンジの意識をぼんやりとしたものへとかえていく。
「あの男が、猿屋の奥座敷で養生中だと知っているか?」
  男は、一本しかない腕をサンジの前に回し、勃ち上がった性器を強い力で扱いてきた。あっという間に高みに追いつめられたかと思うと、不意に男は根本のほうを指で締め付けた。
「ああっ……!」
  身体を捩った途端、銜え込んだ男の竿をきつく締め付ける。
  男は、サンジが身を捩るたびに面白そうに握りしめた指に力を加えた。根本を押さえ込まれた性器は、先端からたらたらと白濁した精液を滴り落としている。
「やっぱり、いい。思っていたとおりだ。この締め付け具合はたまらんな」
  耳朶をやんわりと噛みながら、男が囁く。耳の中に舌をつっこまれ、執拗にねぶられるとそれだけでサンジの肌は鳥肌立った。
  固くて赤黒い男の醜いものを自らの後ろで受け入れているのだと思うと、吐き気が込み上げてくる。薬のおかげで快楽のみを追いかける体となってしまっていても、これがサンジの意に添わない行為であることにかわりはない。
  ヒュッ、と喉の奥が声にならない悲鳴をあげる。
  視界が霞んでいるのは、泣いているからなのだろうか。
  この俺が、泣くなんて──そんな風にサンジが思った瞬間、強い不快感が下腹部から這い上がってくる。男が、サンジの中に射精したらしい。腰をずらそうとすると、結合部がぬちゃぬちゃと音を立てた。
「あれは……どうやら、目をやられたようだな──」
  遠のいていく意識の向こうで、男の声が無機質に響いた。



  サンジが目を開けると、あたりはすっかり明るくなっていた。
  男の気配はどこにもなかったが、部屋の中は生臭い饐えたにおいでいっぱいになっていた。夕べ、男がそこにいたことを示す痕跡が、まるでサンジを嘲笑っているかのようだ。
  吐き気をこらえながら体を起こすと、サンジはのろのろと着物を身に纏う。
  見世のほうはナミに任せておけば心配はなかったが、何もかもを任せておくというわけにはいかない。日に一度は顔を出して様子を見ておかなければと、サンジは重怠い体を叱咤して部屋を片付けた。
  食事をとるだけの気力はなかったが、何か腹に入れておいたほうがいいだろう。母屋に何も残っていない時には、離れで粥でももらうことにしよう。この吐き気がおさまるのならば、なんだっていい。もちろん、チョッパーが特効薬を処方してくれるのならそれでも構わないと思える気分だった。
  目覚めた直後から男の言葉が頭の中でぐるぐると回っていたが、今はそれについては何も考えないことにした。ここであれこれ思い悩んだとしても、サンジには何もできることはない。
  そうこうするうちに、戸口を叩く音が聞こえてきた。
  気遣わしげな控えめな音に、サンジは土間へおりていった。
「はいはい、はい……っと……」
  面倒臭そうに引き戸をあけると、目の前にカヤが立っていた。
「おはようございます、サンジさん」
  腹の膨らみが目立ちはじめたカヤは、籠いっぱいの柿を抱えている。
「今朝早くにご隠居さんからのお使いの方が来て、柿を置いて行かれたそうなんです。ナミさんから、サンジさんのところに持っていくように言われたので……」
  にっこりと微笑むカヤは、どこから見ても幸せそうだ。
「……悪かったね、カヤちゃん。重かっただろう?」
  戸惑いながらもサンジが声をかけると、カヤはいいえと微笑んだ。
「これぐらい何でもありません。少しは動かないと、お腹の子のためになりませんもの」
  はにかみながら返すカヤが、羨ましかった。男のサンジとは違い、愛する者との生活を手に入れた幸せなこの娘が、酷く羨ましい。
「サンジさんは、朝は…──」
  娘が言いかけたところで、サンジの腹が盛大な音を立てた。
「あら……」
「あっ……」
  二人とも不意に押し黙ると、気まずい雰囲気のまま、顔を見合わせた。
「よかったら、離れにおいでください。ウソップさんも若先生もこれから朝餉なんですよ」
  無邪気な瞳がサンジを見上げる。
「若先生?」
「ええ。若先生です。夕べからウソップさんと二人で、猿屋さんまで往診に行かれてたんです。なんでも、大きな出入りがあったんですって」
  カヤの言葉に、サンジの目が剣呑に細められる。
「猿屋の若旦那を庇って、お侍さんが斬られた、って……」
  カヤの言葉に重なって、赤毛の男の言葉がサンジの頭の中で響き始めた。
  どうやら、目をやられたようだな──



to be continued
(H19.3.18)



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