『三日月の夜 26』



  結局、夜が明けるまで狼煙が上がることはなかった。
  エースもルフィも単に狼煙を上げるのを忘れているだけなのか、それとももっと他に何かのっぴきならない理由があるのか。これが単なる取り越し苦労であればと、サンジは願わずにはいられない。
  一夜明けた冬島は寒々しかった。他人を寄せ付けないような、拒むような、そんな冷たいく刺々しい雰囲気を感じる。
  定時連絡を確かめに見張り台に上がっていたゾロが、渋い表情で戻ってきた。やはり狼煙はどこにも見えないようだ。
  それでも午前中は皆、海洋調査に集中した。そうする他なかったのだ。
  ロビンの指示で、前日と同じようにジンベエとゾロが海に潜った。サンジは甲板と調理場と見張り台とを行き来して必要なことをこなす。
  狼煙はまだ、上がらない。
  ともすれば苛々しそうになる気持ちをぐっと押さえ込んで、サンジはロビンの助手役に徹した。
  そのうちに雪交じりの風が吹き始めた。
  昨夕から待ち続けている狼煙はまだ上がらないというのに、時間は刻一刻と過ぎていき、とうとう昼前には海洋調査が終了した。
  甲板では、寒さで紫色になった唇のゾロが渋い顔をして空を見上げている。
  ロビンとジンベエは、何食わぬ顔で今回の調査についての意見を交わしあっている。猿屋の兄弟などどうでもいいということなのか、それとも信頼を寄せているからなのか、サンジにはわかりかねた。
  熱い湯呑みを持ってサンジは、ロビンのほうへと近寄っていく。
「お茶をもう一杯いかがですか」
  声をかけるとロビンは振り返った。
「いただくわ」
  たおやかに微笑みかけるロビンは、ルフィたちのことなど何も心配していないという様子をしている。どうやら二人にとっては海洋調査のほうが大切なようだ。
  まだ海に潜りたそうにしているジンベエが、ちらちらと海面へと視線をやりながら声をかけてきた。
「狼煙は見えたかの?」
「ああ……いや、まだだ」
  先ほどのゾロの渋面も気になったが、ジンベエの様子も気にかかる。
  何かを気にしているような気がするのは、何故だろう。
  ──海の様子を? それとも、猿屋の兄弟のことを?
  ジンベエにつられるようにしてサンジも、海を覗いた。
  青く冷たい海水が、穏やかな波となって船の縁に打ち寄せてくる。
  それ以外には何も見えない。
  不意に、ロビンが小さく呟いた。
「……まだよ」
「え?」
  顔を上げてサンジは尋ね返そうとしたが、それよりも早くロビンは船室へと下りて行ってしまった。
「波が静かすぎるな」
  ジンベエもそう一人ごちると、船室へと足を向ける。
  サンジも慌てて、二人について甲板を後にする。
  冷たい風が襟足を捉えて吹きつけてくるのがたまらなく寒かった。



  海洋調査が終わった今、ジンベエもゾロも手持無沙汰で仕方がないといった様子をしている。
  定時連絡の時間が近付くと、ジンベエとゾロの二人が交代で見張り台に上がることになった。食事の用意やら何やらで忙しいサンジにはありがたいことだ。
  ふと見ると、二人は見張り台の上で何やら熱心に話し込んでいた。
  何か企んでいるのではないかと思われるゾロの横顔がちらりと見えた。眉間に皺を寄せてサンジは、それをじっと眺めている。
  低い声でロビンが尋ねてきた。
「どうかしたの?」
  顔が怖いわよ、とロビンはやんわりとからかってくる。
「ああ……いや、何でもないよ、ロビンちゃん」
  そう返すとサンジは、再びゾロのほうへと視線を向けた。
  やはり、どこかしっくりこない。ゾロの態度、ジンベエの様子、ロビンの言葉。ゾロが眉間に皺を寄せて、こめかみに青筋を立てているのがここからでも見えるような気がする。
「もうすぐよ」
  ロビンが呟いた。
「もうすぐ、風向きがかわるわ。そうしたら……」
  言いかけたものの彼女は、言葉を途切れさせた。
  そのまま口元にうっすらと笑みを浮かべるとロビンは、不意に踵を返す。
「下にいるわ。何か変化があったら呼んでくれるかしら?」
  優々とした足取りで彼女は、船室へと下りていく。
  サンジは黙ってそれを見送った。
  ゾロはまだ、見張り台の上だ。上がらない狼煙を待って、じっと虚空を睨み付けている。
  あたりの空気が緊迫したものへと少しずつ変わり始めていることにサンジは気付いた。
  午前中ののんびりとした空気は、もしかしたら作られたものだったのかもしれない。ジンベエとロビンの二人が、故意にそう見せかけてたのだ、おそらく。
  サンジはぽそりと言葉を吐き出した。
「……何がどうなってんだ」
  そもそも冬島へやってきたこと自体が、間違いだったのかもしれない。
  誰が仕組んだことかはわからないが、何かが動き出していることだけは確かだった。
  いったい何のために、そしてどうしようと言うのだろう。
  何気なく空を見上げると、白い月が浮かんでいた。夕方の月はうっすらと滲んだような様子で空にかかっている。
  サンジは顔をしかめると、小さな溜息をついた。
  鼻をヒクつかせると、うっすらと水のにおいが感じられる。雨でも来るのだろうか。
  思わず、言葉が洩れてしまった。
「嫌な空だぜ」
  一刻も早くエースたちの行方がわかればいいのにとサンジは思った。



  あっという間に空が暗くなってきたと思ったら、その次の瞬間には雨が降り始めていた。
  ずぶ濡れになりながらもゾロは、見張り台に上がったままじっと空を睨みつけている。
  狼煙を……猿屋の兄弟からの報せを、ゾロは待っているのだ。
  ゾロは、あの兄弟を信じている。彼ら二人を信じるだけの根拠があるのかどうかは怪しいところだが、何らかの信頼を寄せていることだけはサンジにもはっきりとわかる。助けてもらった恩義もあるのだろう、きっと。
  同じように甲板の上で胡坐をかいてじっと座り込んでいたジンベエが、小さく瞬きをした。
  真っ黒な雲の中では雷鳴が暴れている。時化るかもしれない。そうなってしまえば、調査だなんだと呑気なことを言っている場合ではなくなってしまうだろう。
「おいおい、大丈夫なのか?」
  ボソリと呟きながらもサンジは、ゾロとジンベエの二人から視線を外すことができないでいる。
  やはり気になるのだ、サンジも。猿屋の二人の無事と、この調査のために集まった面々の口に出すことのできない事情が。
  連絡のつかない今が想定通りの動きであるのなら、問題はない。心配をする必要もないだろう。
  だが、ジンベエもロビンも、そしてゾロさえも、感情をあまり表に出さないようにしている節がある。何か予定外のことが起きてしまったための現状であるのなら、それを何とか打開しなければならない。とは言うものの、悲しいかな予定外のことが何なのか、サンジには皆目見当もつかない。
  眉間に小さな皺を作るとサンジは、くるりと踵を返した。自分には船室へ降りてしなければならないことがまだある。この船に残っている者たちの腹を満たしてやることこそが、今のサンジがしなければならないことだ。
  狭く急な階段を下りながらサンジは、夕食をどうしようかと考える。調査の合間にゾロとジンベエの二人が獲ってきた魚が大量にあるから、万が一エースとルフィの二人が戻ってきたとしても心配はない。手っ取り早いのは焼き魚だが、味噌汁に入れてもいいかもしれない。それに握り飯があれば、あっという間に夕食のできあがりだ。
  そんなことを考えながらふと顔を上げ、薄暗い廊下の先へ視線を向けると、そこにはロビンが立っていた。
  ぎょっとして足を止めると、気付いていたのかロビンはふっと表情を和らげる。
「驚かしてしまったかしら」
  ごめんなさいねと静かなロビンの声が響く。サンジは首を横に振ると、ニヤリと笑い返した。
「ああ……あまりにもロビンちゃんが美人だから驚いただけだ」
  さらりとその場を流そうとすると、ロビンは「ありがとう」と告げてきた。
「あ?」
  礼を言われるようなことをした覚えはない。
  怪訝そうにサンジはロビンの顔を見つめ返した。
「飯のことなら……」
「違うわ」
  すかさずロビンが言葉を発した。
「そうじゃないのよ。私が言っているのは、それとはまた別の話。ただ、あなたにありがとうと言いたかっただけ」
  まるで謎かけのようにロビンは言った。彼女はサンジに対して、何やら恩義を感じているらしい。それが何なのかは、わからないが。
  奇妙な言葉を告げるとロビンは、満足したのかくるりと踵を返した。どうやら自分の部屋に戻るつもりらしい。
「夕食ができたら呼びに来てもらってもいいかしら? 今のうちに調査結果を纏めてしまいたいの」
「ああ、わかった」
  サンジは怪訝そうな顔をさらに顰めて、立ち去るロビンの背中をじっと見つめていた。



to be continued
(H28.2.9)



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