『三日月の夜 15』
気が付くと、あたり一面に闇が広がっていた。
何も、見えない。
何も、聞こえない。
人の気配すら感じ取ることが出来ず、ゾロは焦燥を感じていた。
手にした刀を握り締めると、汗と血でぬるぬるとしていた。
いったい、どうしたというのだろう。
つい今し方まで、ゾロは戦っていた。愛用の刀を両手に、猿屋に夜襲をかけてきたどこの者とも知れない男たちを、一人ずつ着実に斬り捨てた。十人ほどまでは数えていたが、そこから先は、何人殺したのか、何人斬ったのか、覚えていない。
朧気な記憶はしかし、残っている。
鼻をつくようなツンとした臭いに反応して振り返った瞬間、何かが顔にかかった。水か、湯だと最初は思っていた。しかし、何かが腐ったような妙な臭いがしていた。おかしいと思った時には、しみるような痛みが皮膚の表面を這い回っていた。目を開けると、あたりは真っ暗だった。人の気配や、刃のぶつかり合う甲高い音や、男たちや女たちの声は聞こえていた。
それから、何かが頭にぶつかってきた。
固い……石か何かで頭を殴られたのだろう、きっと。目が見えないままにゾロは、意識を失った。
どのくらい経ってからかわからないが、何かが焼け焦げる臭いがしてゾロは再び意識を取り戻した。それでも、目は、見えなかった。パチパチという炎の爆ぜる音が聞こえて、見えないながらもゾロは手にしたまま離さなかった刀を杖のかわりにして、立ち上がった。体のあちこちの筋肉が痛んだ。右肩のあたりが濡れている。顔に何かの液体がかかった時に、濡れたのだろうか。焦げた臭いのしないほうへと向かってよろよろと歩いていると、不意に誰かに手を引かれた。
柔らかくてほっそりとした、女の手だった。
誰の手かもわからないままに、ゾロはその手をしっかりと握り返した。
この手は、ゾロを生き長らえさせる手。この地獄のような場所から連れ出してくれる、唯一の希望だ。
「しっかりついてきて」
女の声がした。
目が見えないままにゾロは、誰だかわからない女の手に引かれて走らなければならなかった。
夢なのか、現実なのか、すでにゾロにはわからなくなっていた。
女に助けられたことは覚えている。
しかしまたしても、闇の中に落とされてしまった。
走って、走って、走らされた。
どこへ連れて行かれるのかもわからなかったが、火の粉から遠ざかっていることだけは何とはなしに理解できた。
どこまで行くのだろうと思い始めた頃に、猿屋の若旦那の声が耳に聞こえてきた。何を喋っているのかはわからなかったが、声を聞いた瞬間に、若旦那だと思ったのだ。
もう大丈夫だと思うと同時に、ホッとしたのか、ゾロは意識を手放してしまっていた。
誰かの声が聞こえたような気がして目が覚めた。
しかし、あたりは暗かった。
まだ夜なのかと思い、暗闇の中でゾロは目をさらに見開く。
違う。
目を覆うごわごわとした感触に、手を、顔にやった。
目が見えないのは、包帯を巻かれているからだ。やはり、戦いの中で自分は目を傷付けたのかもしれないと、ゾロは思う。何故、こんなことになってしまったのだろう。
いや、それよりも。
ここはいったい、どこなのだろう。
半身を起こして、包帯を解いた。ゆっくりと目を開けてみたが、何も見えない。
拳を握り締めた。手が、微かに震えている。見えない拳が見えるような気がした。
おそらくあの戦いで視力を失ってしまったのだろう。
今の自分は、なんと、頼りないことか。
身じろぎひとつせずにその場でじっとしていると、足音が近付いてきた。
板の間を歩いてくる足音は、二つ。
音の聞こえる方に顔を向けると、障子の開く音がした。
「おや、起きてるよ」
嗄れた老女の声が横柄に呟いた。
「なるほど。お前さん、治癒力は普通の者に比べて抜きん出ているようだね」
老女が喉を鳴らした。まるで獣のような鋭い気配に、ゾロは一瞬、たじろいだ。戦いの時に感じるような気配とは異なる奇妙な気配が、不気味だった。
「ドクトリーヌ、眼球の様子を診てから包帯を巻き直しとけばいいかい?」
幼い少年の声がすぐ近くでした。こちらの気配にゾロはまったく気付いていなかった。ギョッとして、声のするほうへと顔を向けると、微かな人の気配が感じられた。おそらくこれが、少年の気配なのだろう。
「そうさね。十日間は包帯をしておいたほうがいいだろう」
ドクトリーヌと呼ばれた老女の声が耳元で聞こえた。
背筋をぞくりと奇妙な汗が這い、すかさずゾロは後退った。
「俺の目は……見えるようになるんだろうな」
問いかけると、老女はヒ、ヒ、ヒ、と掠れた声で笑った。
「お前が望めば、そうなるさ」
そう言うと、老女はゾロから少し離れたところに座ったようだった。
自分は何も見えない状態だというのに、老女と少年に見られているということが、ゾロには我慢ならなかった。どう足掻いても見えない今の自分に、苛立ちばかりが募っていく。
少年の手は慎重にゾロの瞼に触れ、目を検分している。たらいに張った水の音がして、少年の指がまた目の下のあたりに触れた。冷たいのは、水で手を洗ったからだろうか。
「どうだい、チョッパー」
老女が尋ねる。
少年はゾロの目を覗き込み、瞼の縁に軽く軟膏らしきものを塗りつけた。それから、柔らかな布をあてた上から包帯を巻いていく。
「うん。目は、十日後の状態次第では包帯を外してもいいと思うよ」
少年──チョッパーは、そう返した。
次に少年は、ゾロの着物をはだけて肩の包帯を解き始めた。そう言えば、戦いの最中に右肩が濡れているような気がした。あれは、血だったのだろうか。
「ここは……もう、治りかけてる。ドクトリーヌ、こいつ、獣並みの治癒力だ」
感心したようなチョッパーの声に、ゾロは眉間に皺を寄せた。
「お前ぇらみたいに胡散臭い連中に言われたかないな」
低く凄んでみせると、ピン、と、鼻を指で弾かれる。
「痛っ……」
ヒヒヒ、と、ドクトリーヌの怪しい笑い声が耳元でした。
「生意気な口をきくじゃないかい、怪我人のクセに」
目が見えないままに、数日を過ごした。
肩の傷はたいしたことがなかったのか、消毒だけで事足りたようだ。
眠っている間のことはわからなかったが、ゾロが意識を取り戻してすぐに肩の包帯は外された。ゾロのほうも、この傷はほんのかすり傷だと認識していた。あれからそう日にちが経ったわけでもないのに、布団に起きあがって肩を振り回しても傷がひきつれたり痛んだりすることはなかった。この傷に関しては、特に心配することもないだろう。
しかし。
目は、どうなのだろう。
目に関しては、チョッパーもドクトリーヌも何も教えてはくれなかった。
何がどうなっているのか、当の本人のゾロには皆目見当もつかない。
十日間は包帯をしておかなければならないと、最初の時に二人の医師から言い渡されている。あれから毎日、チョッパーとドクトリーヌが交互にこの部屋を訪れては、包帯を取り替えている。どちらも傷に関することはほとんど話さず、天気のことだとか、ゾロの胸の大傷のことや、どうでもいいようなことばかりを話しにやってくる。
目のことは、何も教えてもらえない。
そのうち、これからどうなるのだろうかと一抹の不安を覚えることが多くなってくると、ゾロは、「お前が望めば、そうなるさ」というドクトリーヌの言葉を思い出すようにしていた。その言葉しか、今は縋れるものはない。
こんな風に目が見えない今、信じられるものは何もないようにゾロには、思われた。
時間の感覚がなくなりそうだとも、ゾロは思った。
目が見えなくなってからのゾロは、いつも寝ていた。それしかすることがなかったからだ。体を動かすことは禁じられていた。部屋の中を手探りで動き回ることは許されていたが、部屋から出ることは禁じられていた。
部屋に出入りするのは、女性が一人。それから、猿屋の若頭──二人とも、今回のことをしきりと気にしていた。自分たちの軽率な行動が招いたことだと、ゾロに頭を下げたのには驚いた。
とにかく、外との接点が少なすぎた。
こんなふうに閉じこめられていても、傷が癒えるはずがない。
外へ出たい。暗い薬の臭いしかしない部屋の中で一日中閉じこめられていたら、気が狂ってしまいそうだ。
チョッパーやドクトリーヌには、何度もそう訴えた。しかし体に障るからと言って、二人とも取り合ってはくれなかった。
人の気配のない時に、部屋を抜け出してみたことも何度かあった。だが、間取りがわからず長い板張りの廊下を手探りで進んでいくうちに、いつも誰かに見つかってしまうのだった。
「ここから、出してくれ」
猿屋の若頭の一人が部屋を訪ねてきた時に、ゾロは言った。
ここは、まるで牢屋のようだ。もっともこの部屋にいれば、時間になれば黙っていても食事が出てくる。怪我の治療もしてもらえる。そしておそらく、ここにいることでゾロは外部の敵となる者からも守ってもらっている。そうとわかっていても、ここはゾロにとっては牢屋に等しかった。
自由が、ここにはなかった。
「──俺を、自由にしてくれ」
それでも、願いが叶えられることはなかった。
目が見えるようになるまでは決して部屋から出てはならないと、若頭は淡々と告げた。
ゾロがこの部屋で意識を取り戻して、八日目のことだった。
to be continued
(H19.10.21)
|