『三日月の夜 19』



  カタン、と音がして、サンジが手にした小盆から湯飲みが落ちる。わずかに足にかかった茶が熱かったが、それすらも気にならないほどサンジは動揺していた。
  何か言わなければと思うのに、口の中がカラカラに渇いてしまい、言葉が出てこない。舌が、口の中にへばりついてしまったかのようだ。
「あ……」
  手を、ゾロのほうへとさしのべた。
  指先が震えている。
  包帯を外してはならないときつく言い渡されていたのに、約束を破ってしまった。チョッパーはまだまだ子どもでしかなかったが、あれでなかなか優秀な医者だった。そのチョッパーが、包帯を外さないようにと言ったのだ。外したら、治るものも治らなくなると、確かそう言っていた。
  縁側にふわりと落とされた包帯を鷲掴みにし、サンジはゾロの頬におそるおそる手を当てた。
「なんで……なんで、包帯を外した? チョッパーは、包帯を外すなと言っていたんだぞ」
  震える声でサンジは言った。腹に力が入らないからか、どうしても小さな声になってしまう。無理にでも腹に力を入れると、今度は声の震えがはっきりとわかった。
「構うか。お前の姿が見れたんだ、本望だ」
  ゾロがそう告げた瞬間、サンジの手が、ゾロの頬を打っていた。
  ピシャリと音がして、お互いに驚いたような表情で見つめ合った。
「包帯がとれたら、俺を抱くんだろう、お前は。こんなことで失明させてたまるかよ」
  そう言ってサンジは、ゾロの目に包帯を巻きつけはじめた。怒っているからだろうか、ぎりぎりと包帯を締め付け、隙間なく元通りにするのにそう時間はかからなかった。
「アンタは、馬鹿だ」
  布団に戻ったゾロに、サンジが言い放つ。
「大馬鹿者だ」
  布団の脇で胡座をかいて座ったサンジは、唇を噛み締めた。
  このままゾロが失明してしまったらどうしよう、この男の瞳が二度と自分の姿を映すことができなくなってしまったらどうしようと、そればかりがサンジの頭の中をぐるぐると回っている。
「見……見えっ、見えなくなったら、どうするつもりなんだ!」
  まだ、声の震えがおさまらない。
  ゾロは手探りで、サンジを探した。頼りなげに伸ばされたゾロの手に、サンジの手がそっと重ねられる。
「俺は、ここだ」
  今にも泣き出しそうな声は弱々しく、サンジ自身にすら、自分の声ではないように感じられる。
「もっとこっちにこい」
  穏やかなゾロの声に、サンジの鼻の奥がツンと痛む。
  手を引かれ、ゾロの膝の上にサンジは跨った。包帯ごとゾロの頭を抱きしめて、震える唇でなんども髪に口づけた。



  朝がくるまで二人は、寄り添い、抱き合ったままでいた。
  離れたくないとサンジは思ったが、そうもいかないだろう。
  夜明けとともに起き出すと、身支度を整える。
  土間の水瓶から水を分け、ゾロの体を手早く拭いてやった。夕方にはチョッパーが診察に来るというのに、昨夜のままにはしておけないだろう。
  天気がいいから、着物も布団も、洗えるものは片っ端から洗った。
  あの小僧は、なかなかに鼻が利く。医者にしておくのはもったいないほどだ。昨夜のことが露見しないとも限らないと、サンジは念には念を入れて部屋の掃除もした。
  ゾロは縁側に腰をおろし、そんなサンジの気配に耳をそばだてている。
  時折、どちらからともなくぽつりぽつりと言葉を口にする。
  穏やかだと、サンジは思った。
「──朝餉はまだか」
  不意にゾロが尋ねた。
  見ると、どことなく拗ねたような口元でゾロがじっとサンジのほうへ顔を向けている。見えないくせに、こういう時にははっきりと意思表示をするのだ、この男は。どことなく嬉しくなってサンジは、微かに笑みを浮かべた。
「ああ、母屋からもらってきてやる」
  そう返すとサンジは、ゾロの手に湯飲みを握らせた。
  部屋を離れる前にサンジは、くどくどと包帯を外さないようにゾロに言い聞かせなければならなかった。
  夕べのようなことはもうご免だ、今度やったら許さないとなんどもなんども言いながら、サンジは部屋を後にした。
  まるで夫婦のようだと、サンジは思う。こんなにもあの男の面倒を見ることが楽しいとは、思いもしなかった。昨夜の名残の痛みすら愛しく思えるほどに幸せだ。
  母屋の台所に顔を出すと、すでに下働きの娘が朝餉の用意をはじめていた。
  いちばん最初に目に付いた娘に声をかけ、事情を説明すると、すでに昨日のうちに話が通っていたのか、すぐに二人分の朝餉が盆に乗せられ、離れへと届けられることになった。
  猿屋の娘はどの娘も愛想がいい。愛嬌があって、可愛らしくて、すれてないところがいい。見世の娘たちも愛想はいいが、皆それぞれに影を持っている。影のない娘たちの明るさが、今のサンジには心強くもあり、頼もしくもあった。



  あっという間に時間は過ぎて、夕方になった。
  ひんやりとした風がふく頃に、チョッパーがやってきた。
  今日は、鬼婆のようなあの女医も一緒だ。
  ゾロも、ドクトリーヌの気配を感じてか、今日は言葉少なにおとなしくしている。
「あっ、包帯を外したな」
  部屋に通された瞬間、チョッパーが小さく声をあげた。
  ゾロもサンジも気まずそうにむっつりと黙り込んだが、嘘を隠し通せるほどではなかった。
「俺が昨日巻いたのと、巻き方が違う」
  ぶすっとむくれた表情で、チョッパーが呟く。
  まさか、包帯の巻き方にまで目がいくとは思いもしなかった。サンジはあっさりと、ゾロが包帯を外したことを白状した。自分が知らないうちに、ゾロが勝手に包帯を外していたのだと、事細かに報告した。
「やっぱりな。そうだと思ったよ」
  口の中でブツブツと文句を言いながらチョッパーは、ゾロの包帯を解いていく。
  障子を閉めた部屋の中は薄暗かったが、これぐらいのほうがいいのだと、チョッパーは言った。
  ゆっくりと包帯が外され、ゾロの瞼を覆っていた布が取り除かれる。
「ゆっくり目を開けるんだ、ゾロ」
  緊張しているのか、堅い口調でチョッパーが言った。
  見ていられないとばかりにサンジは、顔を横に背けた。
  ゾロは瞼をピクリと動かした。昨夜はサンジ見たさに無理矢理目を開けてしまったが、それではいけないと、ゾロの中の何かが本能的に知っていた。ゆっくり、ゆっくり、目を開けていく。
  最初に目に入ってきたのは、自分の手だった。暗がりの月明かりですら目に眩しかったが、今は部屋全体が明るく見える。何度か瞬きを繰り返し、自分のすぐ脇にいた小僧にちらりと目を向ける。
「見えてるみたいだね、目」
  声変わりもしていない甲高い声が言う。この赤毛の小僧がチョッパーなのだと、ゾロは少年をまじまじと見遣った。



  簡単な診察の後、しばらく無理はしないようにとゾロに言い渡すと、医師たちは慌ただしく帰っていった。
  二人きりになった部屋の中は、どこか居心地が悪かった。
「おい。障子、開けろ」
  ゾロが言うと、サンジは不機嫌そうにおう、と返して障子を開けた。表から入り込んでくる風はひんやりとしていて、心地よかった。
「……ああ、明るいな」
  しみじみとゾロが呟く。
  夕暮れの空は紺碧の色をしていた。濃紺、橙、薄緋、茜、それに灰色がところどころで入り交じり、空を染めている。月と、星たちがちりばめられた空に、ゾロは目を細めた。
「サンジ」
  手振りだけでゾロは、サンジをそばへ呼びつけた。
  音もなくサンジが近寄ると、抱きしめられた。強い力でぐい、と腰を抱き寄せられ、うなじに鼻先をすりつけられた。
「抱きてえ」
  まるで子どものように、ゾロが掠れた声で囁く。くぐもった声がサンジの肌を震えさせ、体の一点に熱を呼び寄せる。
「やめとこうぜ。今日は、気分じゃない」
  サンジが言うと、ゾロはさらに強い力でサンジを抱きしめる。
「嫌だ」
  駄々をこねればサンジが言うことを聞くと思っているのだろうか。ゾロはねっとりとサンジの耳の中に舌を差し込み音を立ててねぶった。
「……んっ」
  一言、嫌だと口にすればいい。それだけのことなのに、サンジの口からはなかなか言葉が出てこない。唇を噛み締めて、声があがるのを堪えていると、ゾロの手が焦らすようにサンジの着物の裾を割ってじかに太股に触れてくる。
「あっ」
  微かな悲鳴がサンジの唇から洩れた。
  素早くゾロの手を掴むと、好き勝手にできないよう、手を握りしめる。
「……なあ。本当に駄目なのか?」
  サンジの細い体にしっかとしがみついたままで、ゾロが尋ねる。
「駄目だ」
  冷たく言い放つとサンジは、ゾロの腕の中からするりと抜け出した。



  猿屋には二人の若旦那がいる。
  兄はエース、弟はルフィと言う。
  兄弟揃って人当たりが良く、決して善人というわけではなかったが、悪い人間ではなかった。
  二人が離れにやって来たのは、ゾロの目が回復して数日後のことだ。
  この兄弟が、単なる雇われ用心棒でしかないゾロに離れを提供し、匿っていることがサンジには不思議でならなかった。
  彼らにとってゾロという人間は、いったいどれほどの価値があるのだろうか。
  弟のほうは何も考えていないようだったが、兄のほうはそうではなさそうだと、サンジは思っていた。
  彼らはまた、サンジを客として丁寧に扱ってくれた。
  聞けば、ゾロの客だからと彼らは言う。と、言うことは、だ。少なくとも彼らは、ゾロのことを単なる雇われ用心棒以上のところに位置する人間として見ているのではないだろうか。
  なんにせよ、当分のあいだ、この離れで生活することになるのだろうとサンジはこっそりと溜息をつく。
  それだけではない。ゾロの怪我が完治するまでは離れで休むようにと、ゾロは若旦那たちから言いつけられていた。
  ゾロを狙った輩がどこかにいて、まだゾロを狙っていると弟のほうの若旦那が言い張るのだ。
  それが本当のことなのかどうなのか、確かめたわけではないからはっきり言い切ることはできなかったが、どうやらゾロは何者かに狙われているような節があった。猿屋がそんなゾロを守っているのは、何故だろう。そこまでしなければならない関係というのが、ゾロと猿屋の間にあるのだろうか。
  尋ねようとして、サンジはなんども時機を逃していた。自分が尋ねていいようなことではないような気がして、いつも口にすることができないでいる。
  それでも、知りたいと思った。
  ゾロが……この男がどういう素性で、何故、ここにいるのかを、サンジは切に知りたいと思った──



to be continued
(H21.7.15)



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