『三日月の夜 12』



  目が覚めると、胃がムカムカして気分が悪かった。
  途切れ途切れに思い出すのは昨夜の記憶ばかりだ。
  目を閉じると身体が揺れているようで、サンジは眉間に皺を寄せてじっと諸々のことに耐えていた。
「オンナとよろしくやりたいある男がな、お前を売ったんだ」
  可哀想にな、と告げた男の声が耳の中で反響している。
  そうだ、自分は売られたのだ。どこの誰が仕組んだのかは知らないが、好いた相手のために、赤い髪の男がサンジを強姦するよう仕向けたのだ。
  ──だが、いったい誰が?
  心当たりなどサンジにはなかった。
  あの赤い髪の男は徹底的にサンジを不快にさせた。
  サンジの中に二度、三度と放つと、そのままサンジの尻や腰にも精液をかけてきた。鏡の前での自慰行為を無理強いし、達すると同時にサンジの顔や胸や腹にまで、精液や小便をかけてきたのだ。
  商売柄、色んな嗜好の人間がいることは知っていた。もちろん、その時の状況如何では仕事としてそういった行為に至ることもあったが、今回のはこれは、まったくの不意打ちだった。
  何故、自分がこんな目に遭わなければならないのか、サンジにはわからなかった。
  誰かに恨まれるような覚えはなかったが、こういう商売をしていればそういったことがあったとしても不思議はない。
「可哀想にな」
  半笑いのまま男は何度もサンジに言い、部屋を出ていった。
  吐き気を堪えて布団の中でうずくまっていると、そのうちに朝がきた。
  早朝の廊下を行き交う女達の密やかな足音。朝帰りの男が、見世を出ていくのを見送る女のどこか押さえ気味の声。鳥の囀り。刃のように冷たい空気。
  身動きするのも億劫で、今日一日、部屋から出たくないなとサンジが思いかけたところに、軽やかな足音が響いてきた。
  静かに襖が引かれ……
「まあっ……サンジさん、サンジさん、大丈夫ですか?」
  部屋に飛び込んできたのは、最近、見世に入ったばかりのビビだった。見世に出て一週間と経たないうちにあしげく通ってくる男ができたビビは長い髪を解いており、髪を上げている時よりも幼く見える。彼女のあどけない顔に男たちは庇護欲をかきたてられるということをサンジは知っている。入ったばかりとはいえ彼女は早くも頭角を現しており、ナミの不動の地位を危うくさせようとしていた。
「ああ、ビビちゃん」
  声は、しわがれていた。まるで老人のような自分の声に、サンジ自身もぎょっとする。
「大丈夫ですか、サンジさん。すぐにお湯を……きれいにしますね」
  そう言ってビビは、何も見なかったかのように至極冷静な様子でてきぱきと部屋を出ていく。戻ってきた時には彼女は、桶を手にしていた。
「昨夜のお客さん、随分と無茶をする方だったんですね」
  落ち着いた声でビビはそう言うと、サンジの身体を拭いていく。丁寧に、素早く。
「……どうしても断れねぇ客だったんだ」
  自分に言い訳をするかのように、サンジはぽそりと呟いた。
「そうですか」
  と、ビビは静かに返した。
  それきり、二人の会話は途切れてしまった。
  ビビは黙ってサンジの身体を清めた。それがすむと部屋を片づけ、障子を大きく開け放つ。汚れた空気を入れ換えるためだ。
  その頃にはもう日はとっくに天頂にかかっており、娘達はそれぞれの部屋に戻って休んでいるようだった。
「すまないな、その……」
  サンジが言いにくそうにしていると、ビビはにこりと笑みを浮かべて首を横に振った。
「お客を取るということはこういうことだ、って、サンジさん、前に言いましたよね。お互い様だと思うんです、わたし」
  ああ、この優しさが彼女のいいところなんだ──そんなことをサンジはぼんやりと思った。
「後で、離れにお膳を持っていきますね」
  それだけ言うと彼女は部屋を出ていった。
  遅くなったがこれから一休みして、他の娘達と同じように夕方からの仕事に備えなければならないのだろう。サンジだって同じだ。客を取る取らないの違いはあれど、見世や娘達の面倒を見なければならないサンジが寝込んでいたのでは、話にならない。
  時間をかけて寝床から這い出ると、人の気配がないうちにと、サンジは離れへ戻った。
  足下はおぼつかなかったが、母屋で横になっているよりはずっとましだった。



  夕方にはいつもと同じように娘達の世話をし、下働きに声を荒げるサンジの姿を見ることが出来た。
  詳しくはわからないが、昨夜のことなど微塵も感じさせない立ち居振る舞いに、ビビは舌を巻いた。さすが見世を切り盛りしているだけのことはあると、サンジの背中を見てビビは思った。
  サンジはしかし、いつもと同じように振る舞いながらも心中穏やかではなかった。
  昨夜の、あの男の言葉が引っかかって、胸がちくちくと痛んだ。
  彼が……あの男が、帰ってきている。
  ふらりと部屋を出たきり姿を見せなくなったあの、マリモ頭の彼が……手を伸ばせば届くところに、いる。
  赤い髪の片腕の男のことは気に食わなかったが、マリモ頭の男の話には興味を引かれた。
  本当なのだろうかと疑うよりも先に、気持ちはあの男を求めていた。嘘かもしれない、人違いかもしれないとは、思ってもいない。
  どうすれば会えるだろうかと、そればかりを考えている。
  まるで十代の若い小娘のようだ。
  猿屋まで行くことも考えたが、その考えはすぐさま否定した。彼はおそらく、男になど会いに来て欲しいとは思わないだろう。
  きっと、このまま何もかも忘れてしまったような顔をしているのがいちばんだ。
  何も知らず、何も聞かなかったような顔をして、日々の生活を送る。あのマリモ頭の男のことはきれいさっぱり忘れてしまって、何もなかったように振る舞えばいいのだ。そのほうが互いのため。彼には今は、いい人がいるのだろう。あの片腕の男が言っていた言葉は諸刃の刃だった。マリモ頭の男にいい人がいるのだと告げられた瞬間、サンジの胸はつきんと痛んだ。締め付けられるようなきりきりとした痛みだった。痛くて痛くてたまらなかったが、不思議と涙は出なかった。
  何故だろうかと考えるよりも早く、あの男のことを忘れようと思っていた。
  そうして、何もかもを日々の記憶の底に眠らせてしまおう──



  小用で見世を出た。
  川向こうの山の端に住む老女は、少々口は悪いが腕の立つ医者だった。
  以前はゼフのお抱え女医で、見世で働く娘たちをよく診てもらっていた。
  今は引退して山の中に住んでいるが、どうやら後継者を育てているようだと、ついこの間、ゼフが言っていた。
  その後継者の顔を拝みがてら、朝からサンジの胸に重くのしかかっている心配の芽を何とかしてもらおうと、そんなことをサンジは考えていた。
  見世の娘の一人が、どうやら妊娠したようだった。娘達の身体の変化には常に気を配っていたサンジのこと、その兆候を見逃すはずもなく。相談した途端に堕胎を進めてくるナミの言葉を一日考えてみたが、サンジ自身、どうしても納得がいかなかった。その相談に行こうというのだから、見世の信条を翻すようなことにもなりかねない。
  薄暗くなった空を見上げると、月が出ていた。
  刃のようにほっそりとして鋭利な、青白い筋のような月だ。残酷で、冷たい月の色だとサンジは思った。
  娘の胎内に宿った命をただの体液に戻してしまってもいいものかどうか、サンジは悩んでいた。
  仕事に差し障りが出るのは当然だったが、それ以上に娘は、腹の子を産みたがっていた。そんな娘の一途な姿を見ていたサンジは、どうにも無理強いすることができなくなってしまったのだ。
  しかしナミは冷酷だった。
  仕事に差し支えるから、今日にでも腹の子を堕ろしたほうがいいと言うのだ、彼女は。
  医者のところに行くのなら、ダイオウと水銀を少量──子を堕ろすための薬の材料だ──ナミはそう、サンジの耳に囁いた。
  ナミの言うことが正しいということは、サンジ自身、よくわかっていた。自分は見世を切り盛りする主人なのだ。ゼフの代から堕胎は行われていた。おそらく他の置屋でも同じはずだ。娘が身籠もったらすぐに堕ろす。そうやって仕事を続けさせている。娘達は金のために働いているのだから、その資本となる身体が使えなくなったら困るのは当然だ。だいたいにおいて、望んで腹の子を堕ろしたいのだと相談してくる娘のほうが多いのだから。
  しかし。
  どこか間違っているような気がする。
  娘は、子を産みたいと言っているのだ。
  出来る限りのことをしてやりたいと思うのは、これは、間違いなのだろうか?



  人気のない街道を道なりに進んでいくと、桜の大樹が見えてきた。
  その大樹の陰に隠れるように、一軒家がちんまりと建っている。
  桜諷庵と呼ばれるその屋敷に住むのは、件の老齢の女性だった。
  彼女の目つきの鋭さは悪鬼のようで、煙草と酒が過ぎるのか、声はいつも掠れて男のようになっただみ声をしている。
「おや、珍しい」
  サンジの姿を目にした途端、彼女はしわがれただみ声でそう言った。
  浅黒い色をした皺くちゃの顔だったが、よく見ると、昔の名残か強い意志を秘めた瞳は黒々と輝いている。若い頃はこのあたりで一番の別嬪だったのだと、本人がよく言っているからきっとそうなのだろう。
  軽く会釈をすると、サンジは懐からゆっくりと巾着を取り出した。
「子を堕ろす薬を……」



to be continued
(H17.11.8)



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