『三日月の夜 13』



  かつての美女が薬を調合している間、サンジは表でぼんやりと佇んでいた。
  煙草を燻らし、何も考えずにあたりの景色を眺める。
  空を見上げると、すらりと細い三日月がただ黙ってサンジを見おろしていた。
  肌寒さを感じ、ぶるりと身を震わせる。
  自分のしていることが正しいことなのか、そうではないのかがわからなくなっていた。もしかしたら自分の信念というものが揺らいでいるのかもしれない。
  手にした煙草は最後まで吸うこともせず、大半が煙となって空へ逃げた。はらりはらりと灰が落ち、指先に熱を感じてはじめてサンジは煙草を手放した。
  山の向こう側に沈んでいく夕陽の残像が、酷く醜い色をしている。
「あの……」
  おずおずと、腰のあたりで声が聞こえた気がしてサンジが視線を向けると、小柄な少年が白い包み紙をつっけんどんに差し出していた。
「薬……ドクトリーヌが、オマエに、って……」
  貧弱な体格の少年だった。
  パサパサとした赤い髪が、獣の子を思わせる。戸惑いながらも手を伸ばし、薬の包みを受け取った。
「悪いな、餓鬼ンちょ」
  そう言って少年の頭をポン、と軽く叩く。少年はビクリと身体を硬直させ、サンジをじろりと睨み付ける。
「……いったい、何に謝っているんだい?」
  ヒヒヒ、と笑いながら、女医が尋ねてきた。いつの間にか彼女はサンジの背後にやってきていた。これっぽっちも気配は感じなかった。油断のできない相手だと、心の中でサンジは苦笑する。愛すべきかつての美女は、サンジの心の中までも見透かしてしまう魔女なのだから。
「多分、この薬を使うことに対して……かな?」
  そう返した途端、女医はにやりと口元を歪めて笑いかけた。
「薬を使うことに躊躇いを感じているね、お前は」
  そうだ。あの娘は、腹の中の子を堕ろしたくないと言っていた。できることならサンジは、彼女のその言葉を聞き遂げてやりたいと思っていた。
  俯いて足下を見ると、影の中にいっそう黒い影が浮かび上がっている。まるで幽霊のように細くてひょろりと細長い影をサンジはじっと眺める。それが自分の影だと気付くまでに、しばらく時間がかかった。
「──彼女は……子を、産みたいと言っていた。俺は、できることなら彼女を助けてやりたい。見世の習わしに従って子を堕ろすなんて、馬鹿げている。クソ喰らえだ。」



  吐き出すようにサンジは言い捨てると、顔を上げた。
  ドクトリーヌがヒヒヒと嗄れた声で笑っていた。
「お前さんに、とっておきの選択をさせてやろう」
  何やら訳知り顔で、ドクトリーヌはそう言った。
「薬のかわりにこの子を連れておいき」
  と、彼女が少年のほうを顎で指し示す。少年は驚いたようにパッと顔を上げ、師でもある老女医の目を必死に覗き込んだ。
「堕胎を勧めるつもりなら、薬を取るといい。あたしゃ、止めやしないよ。だけど、お前さんが堕胎をやめさせたいのなら、この子を連れておいき。でなけりゃ、近いうちに間違いなく、あたしのところを訪ねてくることになるだろうからね」
  ぎょろり、と女医の眼がサンジを睨み付ける。
「ドクトリーヌ……俺……」
  か細い声で少年が、泣き言を呟いている。
「さあ、どうするね」
  ずい、と女医がサンジの胸ぐらを掴み上げた。
「なに、簡単なことだよ。薬をとるか、命をとるか、ふたつにひとつじゃないか」
  たったそれだけのことなのに、サンジは躊躇してしまった。
  見世が大事か、命が大事か。
  ナミに言わせたならきっと、見世が大事だと答えるだろう。ゼフにしてもそうだ。見世のために皆、身を粉にして働いている。見世が、彼らの命、彼ら自身でもあるのだ。
「俺は……俺は……──」
  呟き、サンジはドクトリーヌと少年とをじっと見比べた。見世も、命も大事だとサンジは思っている。どちらも天秤にかけることはできない。ならば、どちらも取るしかないだろう。見世も、命も。そして、目の前にいる、このどこか頼りなさそうな少年医師も。
「薬は返すよ」
  喉が渇いて、掠れた声しか出なかった。
  もしかしたら自分は間違ったことをしているのかもしれないと怯えながらも、サンジは自分の思う通り、薬を女医に突き返した。
「彼を、連れて行こう。ちょうど、見世にお抱えの医者が欲しかったところなんだ」
  サンジは諦めたようにそう言い切ると、少年のほうに向き直った。
「今日からよろしく、先生。俺は、サンジ。この先の置屋の主人だ。アンタのことは、なんて呼べばいいんだ?」
  娘の堕胎は、とりやめだ。これから帰ったらすぐにナミを説得して、娘が腹の子を無事に産むことができるよう、とり計らってやらなければならない。少年医師にはたっぷりと働いてもらうことになるだろう。
「俺は、チョッパー。ドクトリーヌの一番弟子だ」
  ぐい、と胸を張って少年が告げるのに、サンジはうっすらと笑みを浮かべた。



  少年医師チョッパーを連れて見世に戻ってから、一悶着あった。
  サンジが医師を連れ帰ったことで娘達はそわそわと落ち着かなげで、どこか浮き足立っているようにも見えた。
「お前の部屋は、とりあえず離れの俺の部屋を使うといい。近いうちに知り合いの大工に頼んで、診療のための部屋もこしらえてもらおう」
  チョッパーを部屋に案内しながらサンジはそう、話した。自分はどこかこの近くに部屋を借りようと、サンジは密かに思っていた。ここにいると、ゾロのことを思い出した。短い日々だったが、充実した気持ちを得ることが出来た。あの男のにおいやしぐさや、ふとした瞬間の眼差しの優しさを想い出したくはなかった。想い出に引きずられて生きるのは、サンジの性には合わない生き方だ。それに、あの赤い髪の隻腕の男がまたやってくるかもしれないと思うとサンジは、ゾロと二人で過ごした部屋にいるのが居たたまれなかった。ゾロを裏切っているような気がしてならなかったのだ。
  娘達の好奇の眼差しを振り切って離れの自室にお膳を運び込むと、サンジはチョッパーと二人で遅い夕餉を食べた。
  母屋のほうからは時折、賑やかな笑い声が響いてきている。のんびりと汁物に箸をつけていると、荒っぽく襖が開け放たれた。
「サンジ君、いるっ?!」
  荒々しい勢いで部屋に飛び込んできたナミは、ぎろりと食事中の二人を睨み付けた。
「堕胎の薬を買いに行ったんじゃなかったの? なんで医者なんて……」
  責めるようなナミの言葉に、サンジは軽い目眩を感じた。やはりナミは、見世がいちばんと思っているらしい。
「堕胎よりも、ナミさん。カヤちゃんは子を堕ろしたくないと言っているんだ。産ませてやろうじゃないか、ここで」
  言った瞬間、力任せに頬を張られた。
  パシッ、という音が部屋に響き、サンジが何か言おうとするよりも早く、ナミが喋り出していた。
「なに考えてんのよ、サンジ君。置屋の娘が妊娠なんて、みっともない。子がいる女にはなかなか買い手がつかないのよ? あの子みたいに稼ぎの悪い子は、もっと気張って稼いでもらわないと困るのよ。わかるでしょう?」
  医者なんて要らないと、言外にナミは告げていた。医者よりも今は、堕胎の薬だ。
「だけど……」
  サンジはナミの手を取って、その甲にそっと唇をおしあてた。
「カヤちゃんを身請けしてくれる男がいたら、どうする?」
  内緒にしてくれと言われていた。大金を用意して迎えにいくその日まで、誰にも内緒にして欲しいと頭を下げられ、サンジは今までずっと誰にも言わず、黙っていた。だが、こんな時だからそこ、彼の存在を仄めかしたとしても罰は当たらないだろう。
「そんな男が、いるの?」
  疑わしそうにナミは、眉間に皺を寄せている。
「ああ、いるよ」
  なかなか身請けするだけの額が貯まらないのだとぼやいていたその男に、仕事を頼もうとサンジは思っていた。足りない額は、サンジが色をつけてやるつもりでもいた。
  何故なら自分の見世の娘を、彼は殊の外大事に扱ってくれたからだ。
  サンジの見世の娘が幸せになるのなら、これ以上に嬉しいことはない。
「カヤちゃんには、今夜からこの隣の部屋で寝起きしてもらおう。母屋での寝起きは身体に悪い。そうだろ、チョッパー?」
  サンジの言葉にナミは、わざとらしい溜息を吐いた。
「……好きにするといいわ。この見世の主人はアンタであって、あたしじゃないものね」
  軽く頭を横に振るとナミは、くるりと踵を返して部屋を後にした。
  言い足りない状態ではあったが、今のサンジを見る限り、ナミの言葉はこれっぽっちも彼の耳には届かないだろう。しばらく時間を置いてから話し合いをしたほうがいいと、ナミは肩を竦めて母屋へと戻っていったのだった。



to be continued
(H17.11.15)



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