『三日月の夜 16』



  見世を出てそんなに日数が経ったというわけではないのに、久しぶりに顔を出した離れは、サンジの知らない部屋になっていた。
  娘たちですら、サンジの知らない表情をして日常の風景にとけ込んでいる。
  自分だけが見世の空気から遠く隔てられてしまったような感覚に、サンジは軽い眩暈を覚えた。
「よう、サンジ」
  威勢のいい声に振り返ると、ウソップが大工道具を片手に離れの土間に入ってきたところだった。
「どうかしたのか?」
  上がり口のところに道具をそっと置くと、カヤが大きなお腹を庇いながら桶と雑巾を持ってきて、ウソップの足を拭こうとする。それを優しく断って、自分で足を拭きながらウソップはサンジの顔を見上げた。
「ああ……なんか、あんまりにも変わっちまったんで、驚いてんだ」
  若先生の診療所はすっかり見世に馴染んでいた。娘達が仕事の合間に相談事を持ってくることも珍しくはないという。少年医師はすっかり一人前の顔をして、怪我人や病人の診察にあたっている。もちろんカヤも、診療助手としての貫録が板に付いてきたようだ。幸せそうな表情の向こうにきりりとした強さが窺えるのは、母になる日が近付いてきているからだろうか。
「ずいぶん雰囲気がかわったな」
  以前のままなのは、母屋とこことを繋ぐ渡り廊下ぐらいだろうか。
  きょろきょろと物珍しげにあたりを見回すサンジに、ウソップは自慢げに笑いかけた。
「そりゃあお前、俺様が不眠不休で頑張ってだな……」
  嬉しそうにウソップが話しているところに、チョッパーがやってきた。一仕事後の疲労感を漂わせた少年医師が、どことなく頼もしく見える。
「すぐに朝餉を用意しますね、若先生」
  と、にこりと笑ってカヤは告げた。
  その途端、空腹だったことを思い出したのか、サンジの腹が大きな音を立て始める。
「なんだ、珍しいな」
  ウソップが知っている限り、サンジはこのあたりでは誰よりも早起きだ。まだあたりが暗いうちから起き出して、娘たちのために朝の仕込みをしていると、近所では有名だった。そのサンジが、朝飯も食べずに顔を出すとは、いったいどうしたことだろうと、ウソップは首を傾げる。
「ああ……まあ、たまにはな」
  そう、サンジは言って返したのだった。



  カヤの料理はうまかった。
  自分が作っている料理よりもあっさりとしているが、素朴な味が好ましい。
  ゆっくりと味わって料理を平らげていく。
「ところで……」
  料理が終わりに近づいたところで、サンジはようやく口を開いた。
「猿屋で出入りがあったんだってな」
  言った瞬間、チョッパーの手が止まる。
「……なんで、そんなことが気になるんだ」
  警戒心を剥き出しにして問う少年医師の態度があまりにもわかりやすくて、サンジは小さく苦笑した。
「いや、ちょっとな」
  つい、と視線を逸らしてサンジは麦飯を口にかきこんだ。
「ああ、ここだけの話だけどな……」
  と、すぐにウソップが事情を察したのか、声を潜めて話し出す。
「実はな、アイツ……ほら、猿屋の雇われ用心棒な。アイツ、この間の出入りで怪我したみたいだぜ」
  汁碗を持とうとしたサンジの手が、そのままの格好で動きを止めた。
「……目を、やられたんだろう?」
  赤毛の男が言っていた。それに、カヤも。サンジは、嘘を吐くことの出来ないチョッパーの目を見据えた。
「なんで知ってるんだ、お前」
  怪訝そうにチョッパーが問うのに、サンジは軽く肩を竦めた。
「わざわざ、俺にそのことを教えに来た奴がいたんだ。夕べ、ふらりとやってきてそれだけ言って帰って行きやがった」
  その代償に何をくれてやったかまでは、教える気はない。サンジの言葉に何かしら勘付いたのか、耳聡いチョッパーはそれ以上はなにも尋ねようとしなかった。
「なんでお前が、あの用心棒のことを気にするんだよ」
  横からウソップが口を出すのに、サンジは苦笑いで返した。
「しばらく俺の部屋に泊まってたんだよ、奴は」
  勝手に居座ってサンジの心を鷲掴みにしておいて、黙って出ていってしまったのだ、あの男は。
  唇を噛みしめて、サンジはじっと手元を睨み付けた。
  勝手なことこの上ない男だと思うが、それでも、気になって仕方がない。いなくなれば探しもするし、怪我をしたと聞けば看護をしたいと思うのは、これは、何かの情を感じているからではないのだろうか。
「そうか……それで……」
  不意に、チョッパーが呟いた。
「治療中、お前の名前をずっと呼んでいたんだ、あの男」
  神妙な顔つきで、少年医師はそう告げた。



  会いたいと逸る気持ちを抑え込んで、サンジは帰途についた。
  今すぐに会わせることはできないと言ったチョッパーは、幼い横顔に大人の表情を浮かべていた。
  しばらくはドクトリーヌと交代で猿屋に往診に行くことになるだろうから、その間に手筈を整えてやるとまで、チョッパーは言ったのだ。
  幼いチョッパーに委ねてしまってもいいものかどうか、サンジには判断することさえできなくなっていた。ただ言われるままに頷き、その場で泣き出さないようにぐっと唇を噛み締めることしかできなかった。
  その後、どうやって屋敷に戻ったのか、サンジの記憶は朧気だ。
  屋敷に戻ると、部屋の荒れ具合を心配して、送ってきたウソップがあちこちを片付けてくれた。
「お前……男の客はもう取らねえんじゃなかったのかよ」
  火鉢の脇でぼんやりと座るサンジに向かって、ウソップが尋ねた。
「ああ。そのつもりだったんだがな……」
  歯切れの悪いサンジの物言いに、ウソップはあからさまに顔をしかめる。友人付き合いをしているから、こういう時のサンジがなかなか本当のことを口にしないのを、ウソップは知っている。言わないと決めているのか、それとも、言い出したくても口にすることができないのか。
  熱い白湯を手渡して、ウソップは溜息を吐いた。
「言いたくないなら、いいんだぜ」
  お客のことまで、聞き出すつもりはないのだとウソップは仄めかす。いったいどんなお客を取っているのか知らないが、部屋の荒れ具合からしても、あまりいいお客でないことは確かだろう。
「悪いな」
  弱々しくサンジは呟いた。
  何に対しての謝罪なのか、ウソップにはわからなかった。
  ただ、頷いて、手元の白湯をズズズ、と音を立てて啜るばかりだった。



  何日かして、サンジの元にチョッパーが尋ねてきた。
  聞けば、今日は薬草を集めに山に入っていたと言う。少年の背負い籠の中には、サンジにはわからない草や葉や木の実が入っている。
「明日の夜、往診に行くから、一緒についてきてくれるか?」
  チョッパーの言葉に、サンジはこくりと頷いた。
「それと……柿の葉寿司が食べたいってうるさいから、何とかしてくれ」
  困ったように、ぽそりとチョッパーが付け加える。
「柿の葉寿司?」
  縁側に腰を下ろしたチョッパーは、足をぶらぶらとさせている。こうしていると、大人びた表情をしてはいるものの、本当はまだまだ幼いのだと思い知らされる。
「そう。柿の葉寿司が食いたいって、我が儘放題しているらしい。そのくせ、誰が持っていっても一口も食べようとしないんだ」
  昨日の往診で、チョッパーも目の当たりにしてきたらしい。
  どうやら、柿の葉寿司を食べたいと言うものの、どこの寿司を持っていっても、難癖をつけて口に入れようとしないのだそうだ。
  ゾロという男は、食べ物に関して言うと、そんなにえり好みをするような男ではなかったはずだ。
  猿屋の者たちは皆、困り果てていると言う。しかし、サンジの記憶に残るゾロは、味にこだわるような男ではなかった。
「柿の葉寿司を持っていけばいいのか?」
  サンジが尋ねるのに、チョッパーは少し考えてから、頷いた。
「たぶん」
  柿の葉寿司かと、サンジは頭の中で考えた。
  日頃、見世の娘たちに食べさせているサンジにとって、寿司を握るぐらいどうということはない。しかし、誰が持ってきても口にしないというのに、自分が持っていったところで果たしてあの男は口にしてくれるだろうか。そうだ、ついでに美味い酒も持っていってやろうと、サンジは思った。
「明後日にはあいつ、包帯がとれるんだ。そしたら、目は、元に戻っているはずなんだ。だから……」
  だから、どうなのだろう。
  顔をあげたサンジはチョッパーの横顔を伺ったが、真意までは読み取ることができなかった。
「……包帯を取る時に、俺も立ち合わせてもらえねえか?」
  知りたいのは、あの男の目が、ちゃんと元のように見えるかどうか、だ。
  赤毛の男の言葉は、サンジに不安を与えただけだった。たった一言で、こんなにも不安になれるものだとはサンジは思ってもいなかった。真実を知りたいと思った。ゾロの目が、ちゃんと見えるのかどうか。黙ってサンジの元を去っていったゾロが、真っ直ぐにまた、サンジのことを見つめることができるのかどうか、確かめたいと思った。



  寿司飯を握る。
  柿の葉寿司を用意しろとチョッパーは言った。
  鮭に、鯖に、鯛の身をそれぞれ少しずつ、用意した。
  あの男が喜んで口にしてくれるよう、とっておきの酒を知り合いの酒蔵から分けてもらった。
  こんなにもあの男のことが気になるのは、何故だろう。
  自分と同じ男だというのに、こうまで面倒を見たいと思うのは、いったいどうしてだろう。
  そんなことをあれこれ考えながら、寿司を握った。
  ただ体を合わせただけで、ここまで情が移るとは思ってもいなかった。いったいあの男の何が、サンジの中の欲望を駆り立てるのだろう。
  こんなにも自分は、あの男のことが気になる。
  ひとつひとつ、手ずから寿司を握り、酒を用意する。
  別に、男が好きというわけでもない。ゾロと出会う前には、間違いなく自分は美しく着飾った娘たちが好きだった。男の客を取ることはあったが、情に流されるようなことは一度としてなかったはずだ。
  それなのに、何故──?
「俺も、それだけ歳を食った、ってことなのかね」
  呟いて、溜息を吐いた。
  もしかしたら自分は、変化のない変化を求めているのかもしれない。
  あの男と過ごした日々は短かったが、穏やかだった。
  穏やかさや安らぎを求めるように、自分は、あの男を求めているのかもしれない。
  用意した柿の葉寿司と酒を風呂敷に包んで、サンジは出かける用意をした。
  見世の様子を見がてら、チョッパーと二人で猿屋へ行くつもりをしていた。
  これから男に会いに行くのだと思うと、どうしようもなく心臓が高鳴る。鼓動の音が誰かに聞かれてしまうのではないかと、サンジは胸元を軽く手で押さえて屋敷を出た。
  夕空を見上げると、ほっそりとした三日月が白く輝いていた。



to be continued
(H20.10.15)



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