『三日月の夜 20』
人目を避けるようにしてサンジは、猿屋の裏戸を潜って表へと出た。
いつまでもゾロと同じようにここに滞在することはできないと、猿屋を出てきた。数日したら様子を見に来るぐらいはしてやるが、何もせず客として猿屋に留まるわけにはいかないと、はっきりと二人の若旦那に告げてきたところだ。
見世のほうも気になった。自分は引退した身ではあったが、それでも、長年の癖が染みついているのか、気にかかる。ナミがいるからそう心配する必要もないだろうが、それでもやはり、自分の目で確かめておきたいこともいくつかある。
夕暮れの風は冷たくて、心なしかよそよそしかった。
屋敷をあけて五日になる。サンジが屋敷に戻っていないことは、きっと見世の娘たちにも知られているだろう。チョッパーがうまいこと言ってくれていたらいいのだがと、思わずにいられない。
のろのろとした足取りでサンジは、屋敷へ戻った。
誰もいない自分一人の場所は、夕暮れの風よりもさらに冷たかった。
体の芯が凍えてしまいそうな冷たさだ。
何も食べる気になれず、かといってこのまま何も食べずにすますわけにもいかず、屋敷の様子をちらりと見てから見世の離れへと足を向けた。
勝手知ったる何とやらで、裏口から離れに足を踏み入れた。
今はもう自分の知らない空間になってしまった離れだが、やはり懐かしい。そんなに離れていたはずではないのにと、サンジは咳払いをして自分の気持ちを誤魔化してみる。
診療所の戸口を開け、中を覗くとちょうど夕餉の最中だった。
チョッパーとウソップ、カヤの三人が、楽しそうに芋粥を食べている。
「いいにおいだな」
わざと明るい声をあげて、サンジは土間に上がり込んだ。
「サンジ、戻ってきたのか」
訳知り顔でチョッパーが尋ねる。
「ああ。働きもしねえのにいつまでも世話になってるわけにもいかないしな」
軽く肩を竦めて言うのに、チョッパーはあまりいい顔をしなかった。
「……それでも、もうしばらく向こうにいたほうがよかったんじゃないかと俺は思うぞ」
「あ? なんでだ?」
目をすがめてサンジが尋ねると、チョッパーは居心地悪そうにちらちらとウソップとカヤに視線を向ける。二人にはあまり聞かせたくない話があるのだろう。
「サンジさん、お夕飯、食べていかれますか?」
不意にカヤが言った。
「こちらに用意しておきますね」
大きなお腹を抱えてカヤは、サンジの夕餉を用意する。全体の動き自体はゆっくりとしたものだったが、手先は器用に動いている。あっというまにサンジの分を用意すると、腹が差し込むのか、足を引きずるようにして用意した夕餉を持ってくる。
「ああ、いいよ、カヤ。ありがとう」
カヤが手にした盆を受け取り、サンジは無造作にチョッパーのそばに座った。
蜆のみそ汁が、いい香りをさせていた。
ウソップに手を取られたカヤは、幸せそうに部屋に戻った。診療所の隅に建て増した部屋が、二人の仮の新居だ。ウソップの生活する長屋に戻ることもあったが、最近はカヤの体の具合を見て仮の新居で休むことも多いと言う。
チョッパーと二人きりになったところでサンジは、ようやく口を開いた。
「留守中、俺を尋ねて客がこなかったか?」
声を低めて喋るのは、どこかやましさを感じているからだ。
「ああ……隻腕の男が来てた」
子どもながらに目端の利くチョッパーは、少し考えてから言い足した。
「お客気取りでやってきて、サンジのことをあれこれ嗅ぎ回ってたのがいたぞ」
やはりあの男が来ていたのだと思うと、あまりいい気はしない。ふと気付くと胃がキリキリと痛んでいたのか、右手をぎゅっと握りしめて胃のあたりに押し当てていた。
「だけどアイツ、お客じゃないよな?」
確かめるようにチョッパーが尋ねる。
そうだとも、違うとも、サンジには返すことができなかった。
あの男のことが気にかかるのも確かだ。あの男は、サンジが知らないゾロのことを知っていた。ゾロがどんな状態なのかを知っていて、サンジに教えた。どこからそんな情報を仕入れてきたのか知らないが、彼はもしかしたら、猿屋の中に密偵を放っているのかもしれない。
「お客じゃねえけど、ヤツは俺にとっては大切な情報をもたらしてくれる人間だ」
だから、断れないのだとサンジは続けた。
手放してしまうにはあまりにも惜しい。いや、そうではない。手放してしまったなら、自分とゾロとの接点がなくなってしまうのではないかと、怖れているのだ。
それに、まだ他にも知りたいことがある。
どうして自分のところにあの隻腕の男がやってくるようになったのか、サンジは知らない。誰かが影で男を動かしているのだということはわかっていたが、背後にいるのが誰なのかは、わからないままだ。
「──誰か、そんなことを示唆するようなヤツに心当たりはないのか?」
そう尋ねられ、男の言葉がサンジの耳の中に蘇ってきた。ある男が……と、あの男は言っていた。心当たりはない。いや、逆に心当たりがありすぎて、見当もつけられないと言ったほうが正しいかもしれない。
チョッパーに勧められるままに、サンジは酒を飲んだ。
お猪口に注がれた透明な液体は、サンジの喉を焼いて胃の中へと落ちていく。
喉がカッと熱くなって体温が上がったような気がしたが、何故だか全身が冷たかった。
「やめとけよ。あんなヤツ、相手にするなよ、サンジ」
考え考え、チョッパーが呟いた。
そんなことはわかっていると返したかったが、サンジは何も言い返すことができなかった。
屋敷に戻ると、また、あの男が待っていた。
隻腕の男は、ニヤニヤとした下卑た薄笑いを浮かべてサンジを舐めるようにじっと見つめている。あからさまな眼差しに、サンジの中に嫌悪感がこみあげてくる。
「お早いお帰りだな」
からかうような男の言葉に、サンジはムッと顔をしかめた。
「俺がどこに行こうが、アンタには関係ない」
また、自分はこの男に抱かれるのだろうか?
ふと嫌な予感がした。
男とは目を合わさないように、俯き加減に下を向いて、引き戸を開ける。
たたきに上がろうとすると、男がサンジの腕を掴んできた。
「なあ。お前さん、今までどこにいた?」
ニヤニヤと笑いながら、男が訊く。
口元を引き結び、サンジはふい、と顔を背けた。
「アンタに教える義理はねえ」
そう告げた瞬間、腕を強く引かれた。肩が外れそうなほど強い力で引かれ、サンジの足が一瞬、よろめく。片腕しかないというのに、この男は意外と力が強い。抱かれている時にもサンジは、そのことを嫌というほど思い知らされることがあった。
「まあ、聞けよ」
男の笑いが不快だった。
ニヤニヤと笑いながら見下したような眼差しをするこの男に触れられているのだと思うと、それだけで気分が悪くなってくる。
「お前さん、まだ自分の立場ってもんがわかってねえようだから、教えてやろうと思ってわざわざ来てやったんだぜ?」
ヒヒヒ、と、男が笑う。
掴まれたままの肩が痛い。もぞもぞと体を動かして男の手から逃れようとすると、肩を掴んだ指が、さらに強い力で肩に食い込んできた。
「いっ…痛っ……」
このままでは肩をへし折られるのではないか。ゾクリとサンジの背を、冷や汗が伝い落ちる。 結局また、自分は男に足を開いてしまった。
言われるがままに上がりがまちに両手をつき、尻を男のほうへと高く突き出す格好で犯されながら嬌声をあげた。
好きでもない、むしろ憎しみすら感じている男に犯されているというのに、声はあがる。それが痛みからくるものなのか、生理的なものからなのかも今のサンジにはわからない。
薬を使うだけの余裕もなかったから、おそらく自分は、男の体が好きなのだろう。尻に突っ込まれてヒィヒィよがりたいのだろうと、自虐的に思わずにはいられない。
ガクガクと体を揺さぶられながら、自分で前を扱いた。男に強制されての手淫だったが、それでも体は反応する。浅ましいと思いながらも、男に暴力を振るわれることを考えると恐くてやめることもできない。
肌けた着物が性器にまとわりつき、不快だった。
体の中に二度、男は精液を放った。
それだけですむはずはないと思いながらもサンジがずるずるとたたきに座り込むと、男の手が髪を鷲掴みにしてきた。
「ほら、しゃぶれ。きれいにするんだ」
目の前に性器を突き出され、強引に口を犯された。
二度の射精でもなお、硬さを保つ男の性器がサンジの喉の奥を突き上げてくる。
えずくと、男はいっそう喜んだ。その表情がいいのだと、舌なめずりをする。
サンジの顔は、唾液と精液と、それに鼻水と涙が入り交じって汚かった。それを見て、また男は喜んだ。お高く止まった顔が汚されるのを見るのは気分がいいと、男は言った。
胃の底から酸っぱいものがこみあげてきたが、堪えるしかなかった。
口の中に男のものが吐き出されると、ドロドロとして青臭いにおいが広がった。喉の奥に飲み下すと、いっそう強い吐き気がこみあげてくる。
「可哀想だが、これも商売なんでね」
男はそう言うとニヤニヤと笑いながら、サンジの腹をしたたかに蹴った。
息が詰まり、ぐぅ、と腹を抱えてたたきにうずくまる。途端に、胃の中のものが迫り上がってきた。
「ぐ、ぅ……」
パシャリと水音がして、サンジは嘔吐した。
「猿屋には近づくな」
男は、冷たい声で告げた。
サンジの髪を鷲掴みにして、汚れた顔を上向かせる。
「これだけ痛い目に遭えば、どういう意味かわかるだろう?」
宥めるような優しい声で男は言った。しかし目は鋭く、今にも人を射殺さんばかりにすがめられている。
「二度と猿屋に近づくんじゃねえぞ」
警告はしたからなと、男は言った。おそらく、この次はないということなのだろう。
サンジは真正面から男の視線を受け止めた。恐くないと言えば嘘になるが、それでも、ここで自分が引くことはできないと、何故だかサンジは思った。
男は苛々と舌打ちをすると、サンジの横面をはり倒した。
男の力が強いことはわかっていた。あの腕力だ。本気で殴られたらどうなるか、それぐらいわかっているつもりだった。頬を張られた瞬間、体が横に吹っ飛んだような気がした。頭がくらくらして、背中が痛かった。上がりがまちに背をぶつけたのだ。
「ぅ……」
体を起こそうとよろめきながらもサンジが身動きをすると、胸元を足で蹴り上げられた。 「近づかねえと、今、言え。でないと次はお前、命がねえぞ」
圧迫された胸が苦しくて、またもやサンジは嘔吐した。吐瀉物が男の足にかかる。
「なんてことしやがるんだ」
言いながらもう一度、男はサンジを蹴った。
「さあ、言え。二度と猿屋には関わらねえと」
猿屋なのかと、ぼんやりと霞んできた頭の中でサンジは考えた。
ガッ、と音がした。
自分が胃の中のものを戻した音だと気付いたのは、口元が濡れてからだ。胃液の酸っぱいにおいがしている。微かに鉄のにおいがしているから、鼻血も出ているのかもしれない。
またしても男に腹を蹴り上げられ、気怠そうにサンジは顔をあげた。
「──…俺ァ、アンタの言いなりにはなりませんぜ、旦那」
男はそんなサンジを見おろして、ニヤニヤと笑っている。
この男は、サンジが言いなりにならなくても構わないのだ。仮にサンジが言いなりにならなくとも、その時はその時で、言いなりにさせる方法を充分に理解している。暴力で従わせればいいだけのことだから、そう手こずることもないだろう。
「そうか」
ゆっくりと男の手が伸び、サンジの前髪を鷲掴みにする。
ぐい、と頭を引き上げられたサンジは、胸元を足で押さえつけられた。
自分にはもう、逃げる力も残っていない。どうしたものかと男の顔を見上げると、引き戸がガラリと開け放たれた。
明るい蜜柑色の髪にさしたかんざしがよく似合っている。ナミだ。
「ねえ、サンジくん。戻ってるのなら戻ってるって一言……」
ブツブツと文句を言いながら中へ入ってきたナミは、ふと顔を上げると、口を開いたまま固まってしまった。
「なに……なんなの、この男……」
ナミの目が、男をギロリと睨み付ける。
「ナミさ、ん……」
身じろぎをしたサンジの体を、男は力任せに蹴飛ばした。
「ぐっ、ぅ……」
水を溜めておく瓶に肩からぶつかっていく。ガシャン、と音がして、瓶が割れて水があたりに飛び散った。頭がくらくらとする。サンジはのろのろと身を起こそうとしたが、体が言うことをきいてくれない。
「今日のところは、このお嬢さんの顔を立ててこれぐらいにしておいてやるよ」
男はそう言い捨てると、ナミのすぐ脇を通り抜けて表へと出ていった。
助かったと、サンジはホッとした。
ナミの声が遠くから聞こえてくるような感じがしたが、疲れていてとてもではないが目を開いていることができなかった。
目を閉じると、体が揺れているような感じがした。
「サンジ君、しっかり!」
ひんやりとした何かがサンジの頬に触れ、その冷たさが気持ちいいと思ったところで意識は途切れてしまっていた。
to be continued
(H21.8.30)
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